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乱読千夜一夜

本と記憶を繋いだり結んだりするブログ

エノーラホームズの事件簿と転職活動。一方でシンデレラから何が学べるのか?

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原題:Enola Holmes 制作&主演:ミリー・ボビー・ブラウン 監督:ハリー・ブラッドビア 脚本:ジャック・ソーン 原作:ナンシー・スプリンガー 動画配信サービス:Netflix 製作国:イギリス 配信時間:123分

会社や団体に所属した人間が必ず通る道がある。

そう、仕事を通じた社会貢献への喜びである。未来最高!未来最高!

すみません、社会貢献とかは真っ赤なウソで、本当は転職活動についてでした。すいません、ついうっかり。

転職そのものや転職活動を経験しない人でも、一度や二度は、ここではないどこかへ・・・という思いを馳せるものだ。それが従業員の性というもの。DYDもそのうちの一人である。

転職活動とは、やや大げさに言えば生き方の見直しである。もちろん仕事が人生のすべてではない。ただし、日本人の80%以上はクワドラントの4象限で区切ると労働者として生計を立てていることになる。

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つまり、一月単位で日計算すると、ざっと月の2/3の割合を自らの労働力を売る形で過ごしていることになる。平日は労働、休日は余暇。それが仕事の基本スタイルだ(本当は24時間/日で計算すべきだが、わかりやすさのため簡略化する)

実生活の65%以上を占める労働時間をどのように過ごすか考えるのは、生き方を考えることと捉えても大きな違和感はないだろう。

では、そもそも、仕事を変えよう=生き方を変えようと思うのはなぜか?

それは、以下のような疑問がきっかけになっているはずだ。

これが僕の(私の)本当の人生なのか?

エノーラ・ホームズの場合

記事タイトルであり、サムネイル画像の伏線をここで回収していく。

「エノーラホームズの事件簿」とは、ミリー・ボビー・ブラウン(「セレブもハマるドラマ」という謎のキャッチコピーで通っている「ストレンジャー・シングス」でイレブン役を演じた子)が制作&主演をつとめたNetFlix Original映画である。

www.netflix.com

エノーラ・ホームズは母と二人暮らし。

父は早くして死別し、兄二人は物心付く前に家を出ていってしまった。エノーラにとって母は勉学の師であり、チェスの相手であり、武術の心得を教えてくれた先生であり、すべてだった。

幸福な日々はある日突然終わる。

ー母が消えたー

エノーラは、兄である聡明な探偵シャーロック・ホームズと、堅物の政治家マイクロフト・ホームズを我が家に呼び寄せるが、事態は思わぬ展開へと進む。

この映画の主題は

The future up to you!ー未来は自分次第!ー

だ。

誤解を恐れず言うと「エノーラホームズの事件簿」はこのテーマがすべてだ。

「未来」は2つのある。

一つは自分の道。もう一つは誰かが決めた道。どちらか一方だ。中道はない。

考える道、思考停止の道、と言い換えてもいい。

主人公エノーラは一貫して自分の道を選び続ける。

今風に言うと極めて”多動”である。

これは、ホームズ家の性(遺伝的特性)でもあるが、何より母親の存在が彼女の人格・思想を形成している。

参考:「人間の本質は生まれつきか?」 

選択を迫られる状況に積極的に身を置き、そこから逃げない彼女が本編の魅力の一つだ。

しかし、逆の価値観として、じっと耐え忍ぶことが肝要である、という教えもある。

忍耐で人は幸せになれるのだろうか?

シンデレラに聞いてみる

上で述べたように、耐え忍ぶことが人生の美徳である、という意見もある。

耐え難い環境や、理不尽な状況であっても、その場に留まり諦めずに夢を持ち続ける、そんな姿に胸を打たれる人も多いのではないだろうか。

シンデレラがその典型だ。

先日、改めてディズニー版の映画を鑑賞したが、正直なところ、マジでこんなヤバい話だったっけ、という感想だった。批判ではなく、純粋に恐ろしかったという感想なので悪しからず。

シンデレラ(吹替版)

シンデレラ(吹替版)

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
 

いまさら言及するのも野暮だが、筋書きは以下のようなものだ。美しく彩られたあらすじしか見つからなかったので、自分で認めることにした。誤りなどあればご指摘されたし。

幼い頃に母親を亡くしたシンデレラは、再婚した継母に引き取られる。連れ子の2人と継母は容姿の嫉妬からかシンデレラに嫌がらせを繰り返す。

ある日、お城の舞踏会の招待状が届くのだが、シンデレラは参加することを許されなかった。落ち込むシンデレラの目の前に突然魔法使いが現れ、ドレスと魔法の馬車を授けた。

すったもんだあって、シンデレラは王子とお城でダンスをすることになるが、魔法使いがかけた魔法のタイムリミットが迫っていることに気づき、城を後にする。

帰り道にシンデレラが落としてしまったガラスの靴を手がかりに、王子は未来の花嫁探しをすることに(※実際に探すのは中間管理職的な執事)

ついに捜索の手がシンデレラの家まで迫るが、継母はシンデレラこそガラスの靴の持ち主であることを悟り、彼女を監禁してしまう。

姉の2人が未来の花嫁だと主張しガラスの靴を必死に履こうとしてみるがサイズが合わない。

すったもんだあって、シンデレラが脱走に成功し、ガラスの靴を履こうとするのだが、継母によってガラスの靴が破壊されてしまう。

しかし、懐に隠してあったもう一足のガラスの靴を取り出し、自ら履いてみせることで、自らがあの晩の女性であることを証明する。

得てして、シンデレラは王子と結ばれ、末永く幸せに暮らした。

でめたしでめたし。

fin

改めて筋書きを記述してみたが、読者の皆様はどのような感想を持っただろうか?

僕がまず気味悪く思ったのは、親父なにしてんの?という疑問が解消されないことだ。この問いは最後まで解無しなのでひとまず置いておく。

さて、シンデレラの境遇が悲惨なのは事実だが、なによりも恐ろしいのは、シンデレラ自身が家からの脱出を全く試みないことだ。巷で見るコピーには「ヒロインの勇気ある行動に胸を打たれ」とあるが、彼女自身が自らの幸せのために思考し行動するシーンは劇中に表れない。監禁から脱出したのも、ネズミと犬の努力の甲斐あってのことだし、魔法使いが現れるまで、悪態をついているかニコニコしているだけである。

犯罪者集団に捕らわれた人質が、彼らと同居するうちに同情心や共感が生まれ、共存関係になってしまう「ストックホルムシンドローム」の構造を見ているようで、もはやここから出てやるんだ、という意思が彼女から1ミリも感じられない。

要は、実はこの人は何も考えられなくなっているのではないのか?

という違和感がこの映画のとてつもなく恐ろしく見える正体だ。彼女の笑顔がそれを引き立たせている。

グリム版シンデレラとの比較

ちなみに、映画の原作になったグリム童話版は、かなり様子が違ってくる。具体的は、大きく2つのシーンがディズニー版でカットされている。以下を注意深く見てもらいたい。

  1. 硝子の靴を姉達が履こうとするシーンで、シンデレラが継母に「足を小さくするしかない」と囁き、継母が2人の姉にそれぞれに、つま先とカカトを切り落とすように命じ、姉たちはそれを実行。辺りは血の海になった。
  2. シンデレラの結婚式に呼ばれた姉妹は、2羽の白い鳩の鋭いクチバシで両目を突かれて失明する。

まさに痺れる展開で、カタルシスを覚えてしてしまう。グリム童話の底の見えなさにうっとり&脱帽だ。

ディズニーが意図的に切り取った上記のシーンは「因果応報」「人は見かけによらない」「嘘つき怖いねぇ」「人間の欲望怖いねぇ」という教訓を教えてくれる、大事なパートだ。

クズみたいな人間もいるが、嘘や虚構が暴かれたとき、それが罰せられることもある。だからクズをクズのまま見逃せたりする。

また、サクセスストーリー(王子との結婚=“裕福さ”の象徴の獲得)の裏には時に他人を蹴落とす強かさが必要という現実が横たわっている。所謂悪人が幸せを勝ち取ることは珍しくないのだ。

善悪とは常に紙一重であることを、グリム版シンデレラは教えてくれる。

ディズニー版シンデレラの気持ち悪さは一体なんなのか?

それは原作の核を切り取った結果の歪みなのかもしれない。

教訓のない虚構は、真に空洞である。

ニーチェに聞いてみる

シンデレラのストーリーでは、ネズミと魔法使いがシンデレラに奇跡を起こしてくれる。現実に照らし合わせれば、魔法使いとネズミは、自分の意思ではコントロールできない「天災」と同じだ。天災の視点から見れば、結果として、シンデレラは王子との結婚という世間一般の幸せ像を手に入れたが、継母家族は奴隷(シンデレラ)を手放した。

「人生は平等ではない」というのが僕の家の数少ない教えで、今では僕の価値観に組み込まれているが、世界は基本的にクソにまみれてる。宮台真司が口癖として「世間はデタラメだ」という言葉を使う。僕も概ね同意である。

ただ、この思考をすすめると、ニヒリズムに突入して、ニーチェの言う「末人」になる。

ツァラトゥストラ(上) (光文社古典新訳文庫)

生きるための絶対的な基準(例えば、神様とか戦後の神話とか)がない。自分は無力だ。なんのために生きるのか?生きる理由なんてないんだ。将来に希望なんてないじゃないか。

ニヒリズムとは大体そんな感じだ。こんな人(末人)で溢れた世界をディストピアと言う。

それを克服するために「永劫回帰」という概念を用いて「神が死んだ」後の世界に対して、人間の不屈さを奮い立たせようとニーチェは試みた。

目の前にある現実こそが、これこそ自分の人生だ、と自信をもって肯定できる人は、これまで歩んできた過去も、「これでよかったのだ」と肯定することができるのだ。

そして、ニーチェは続ける。

そして未来に対しても臆することなく前向きに肯定的に歩んでいくことができる。

つまり、今のこの瞬間を肯定できれば、この先もずっと肯定し続けることができる。

そう喝破した。

天才ニーチェの言っていることを完璧に理解できたつもりには全然ならないが、これは、「ただ耐える」ということとは全く違う気がするのだ。

エノーラvsシンデレラの結末

エノーラホームズの事件簿のヒロイン、エノーラは思考と行動によって未来を変えていく。シンデレラは、思考を停止させ、行動を起こさず、天命に身を任せた。

思考を止めて、行く末を"誰か"に委ねるシンデレラになるか、自ら生き方を選択するエノーラになるか、その人の自由である。

自由意思だけで人生を変えることはできない。ただし、環境、運、遺伝、行動、いずれかが噛み合うことで、選択肢が目の前に現れる。AかBか。前者は現状維持、後者は変換だ。

刺繍もろくにできないエノーラは、当時の世間体からすると恥ずかしい存在だったが、世界を見て、そして自分を見た後で、探偵になるという道を選択する。

 

さて、あなたはどの道を選ぶ?

最後は冒頭の「エノーラホームズの事件簿」のこの言葉で締めくくることにする。

The future up to you!ー未来は自分次第!ー