いかにして集団生活における心理的安全性を保つか
これまでの投稿と打って変わって、まるでテイストが違ってしまうが、最終更新日の1月末から現在まで、徹底して一つのテーマについて考えてきた。
いかにして集団生活における心理的安全性を保つか
これが僕にとって一番大きな問題意識で、これからもこだわって考えていきたいと思っていること。
以下に、現時点での俺の考えを綴る。
その上で、読んでくれた人には何かヒントになりそうな芸術作品や書籍、 個人的な考え方のヒントなどあれば教えてほしいです。映画でも漫画でも、哲学書でも、文学書でも。
そもそもなぜ集団と心理的安全性がテーマなのか
そもそもなぜこんなテーマなのか。
実を言うと、つい最近友人と喧嘩別れをしてしまったり、 会社との関係性を壊してしまったり、そもそも集団生活に居心地の悪さを感じることが多かったことが直接的な要因。
自分のインターフェースが陽気な感じなので、外交的な性格に捉えられがちだが、他者との関係の結び方が不得意で、かつ集団に属するとアレルギー反応が出てしまう症状がある。
この処方箋として「諦める」以外の工夫でどうにかしたい、ずっと考えていた。
加えて、今後も夫婦生活を円満にしたいという気持ちと、次こそ集団生活は楽しみたいという 目先の幸福追求の気持ちも切実にある。
(集団生活にそもそも向いていないのでは?という懸念はある(笑)が、集団の性質と規模を見極めることだったり、自分の心構えや処世術で解決したいという強い意思があるのだ)
どんな方向性で考えるか
そもそも君・・・問題は自分にあって、自分が変わらないことには相手は変わらんよ、という意見には中指を立てるとして(ボトムアップ的にいままでの事実を並べて反省するのも個別でやるが)
それとは別に、考え方や心構えというか、あり方を見つめ直したいと思っている。
そのためのヒントがほしい。
現時点の自分を改造せず、拡張したい、というのが正しいかもしれない。
ここからが俺の思考プロセスだ。
現時点の土台となる考え方
そもそも心理的な安全性とは何かをざっと考えてみると、
- 相互承認、相互理解が担保された関係性
- 自分の行動や言動が無条件に許される、という自分の中での思いが芽生えている状態
- 相手がリスクを許容してくれるだろう、という安心感があること
いろんな条件がありそうだが、 シンプルに考えると、集団生活には極論「自分」と「相手」しかいないわけで、 自分と相手の相互関係を健康的に作り上げていくためにどんな考え方をもつべきか? が要点になるのではないか。至極当たり前なんだけどね。
そう考えると、大雑把に言えば
「自己決定の権限範囲(自分→相手)」
「他者からの干渉の許容範囲(相手→自分)」
あたりを仮の論点にしたい。 (ここは他の視点があるかもしれない)
要は、自分が自分勝手に、自分で判断できる範囲がどこまでなのか?相手からの強要、依頼、懇願をどこまで受け入れるのがいいのか? (このあたりは、ミードの自我論、I、Meの考え方に影響を受けている)
この思いの裏側には、以下のような俺の願いがある。
- 他人に過度に干渉されたくない、なるべく自分で意思決定がしたい。
- ただ、他者と関係性をもつことが自分にとって必要。
- 相手の尊厳も保ちたい。敬意を払いたい。
- ↑は言い換えれば、傷つきたくもないし、傷つけたくもないということ。ただ、無関心になりたいわけでもないし、逆に規範の植え付けもしたくない。 強要の先には全体主義が待ち受けているし、それはディストピアを容認することになるから。
- 社会参加をすることなしに、生きている実感はわかない。
- 「仕事だから」「ルールだから」「理念だから」という大義名分で他者を動員したくないし、されたくない。
まとめると、 心理的な平穏を保ちながら、相手の尊厳を侵害せずに集団に属したい。
そのためにどういった考えや、やり方を持つことで、集団生活での自分の幸福を追求できるのか? を考えて、実践していきたい。
巨人の肩に乗るー危害防止原理ー
現時点でのJSミルの「自由論」にかかれている一節が、俺が見つけた妥協解で、これを起点に考えを進められればいいなと思っている。
「人類が、個人的にまたは集団的に、誰かの行動の自由に正当に干渉しうる唯一の目的は、自己防衛だということである。すなわち、文明社会の成員に対し、彼の意思に反して、正当に権力を行使しうる唯一の目的は、他者にたいする危害の防止である。」JSミル
要は、あなたのためを思ってるのという理由でまわりの人が強制的になにかさせたり、逆に静止すること(パターナリズム)は、だめ。強制はだめだが、説得したり懇願したりするのはOK。
人は、自分で何かを決めることができるのであって、誰かから何かを干渉されないことが幸福を追求することに繋がる。
これは妙にしっくりくる定説で、いまの自分の考えにマッチしている。
ミルの自由論のあいまいさ
ただ、ここで新たな問題意識が浮かぶ
危害とはなにか?どこからどこまでを指すのか?寛容さを信じるのであれば、どこまでも許せてしまうのではないか?
- 例えば、観葉植物をデスクに置くのは隣人にとって危害なのか?など、危害という言葉が曖昧で、逆に他者との関係性の結び方を難しくしている気がする。
- 規範の内面化が進んだ社会では、あらゆることが危害としてみなされてしまうのではないか?
- 危害がある、ないをどこまで自分が断定できることができるのか?
- 危害がある、という判断は他者がする。かつ、他者の道徳や規範意識はそれぞれ異なる。 その前提で、いかに危害を断定することができるのか?
- 法と道徳の話に解決策を求めるべきか?
- 道徳を一般化することは全体主義に繋がることではないのか?
- 自己決定が難しいと断定できる対象は誰か?たとえ「大人」であっても、理性が失われた状態なんてのはザラにある。
- ハーバマスが言っている、「理性的なコミュニケーションによる合意形成」は一定効果がありそうだが、例えばカフェで隣り合った人や、すれ違う人に対していちいち合意形成をとることは現実的じゃない。また、理性的な人がすべてではない。利害関係が異なったり、虫の居所が悪いとき、感情的になることはある。
- そもそもパターナリズムがだめなのはなぜ?
みたいなことが個人的な残尿感として残る
以上、ツラツラと述べてきたがそんなことが問題意識ですが、伝わりますでしょうか?
何か、ヒントにアイディアを与えてくれる芸術や文学、個人的なアイディアがあれば教えてほしいです。
新宿 純喫茶西武より 愛を込めて