自分が「いる(Being)」仕事をすることで「生き生き」した感じが他の人にも伝播していく。ぼくたちの心をシラけさせないために必要なこと―――『自分をいかして生きる』
いい仕事って一体なんだろう。
ある会社役員とのオンラインミーティグの帰り道、代々木八幡商店街を歩きながら、そんなことをぼんやりと考えていた。
まぁラーメンでも食べて忘れようと渋谷方面へ歩いていたら、道すがら、ひかえめにいって最高な書店を見つけてしまい、吸い寄せられるように店内へ(あんまりにも最高だったので宣伝も兼ねて↓)
そこで出会ったのが、冒頭の本。
著者は建築設計の仕事をしている人なんだけど、「働き方研究家」という肩書きでも活動している。文章が手紙のようで読みやすく、自分の考えと照らし合わせて読むことができた。
仕事ってなんだろう。
これはぼくたちの人生のテーマでもあるので、すぐに答えが出ることでもないけど、せっかく出会ったこの本と一緒に、今日もゆっくりと考えていきたいと思います。
『自分をいかして生きる』を軸に仕事を考えてみる
著者の西村佳哲は「存在という贈り物」という節でアキッレ・カスティリオーニが残した以下の言葉を引用している。
いいプロジェクトというのは、自分の存在を後世に残そうとする野心から生まれるものではありません。あなた達がデザインしたものを使うことになる誰も知らない見ず知らずの小さな人々と、ある交換をしようと思う。その気持ちからいいプロジェクトは生まれるのです。
カスティリオーニが用いた「交換」が今回のキーワード。
最初に読んだ時、すごく引っかかった。ある交換っていったいどういう意味なんだろうか。
確かに、ぼくたちは誰かの仕事の成果を手に入れるために、それに応じた対価を支払う。時間だったり、貨幣だったり、個人情報だったり。ただ、そういった俗物的なものではなくて、何か大切なメッセージが隠れている気がしてならなかった。
カスティリオーニ氏の仕事そのものにヒントがあるのかもしれない。
カスティリオーニの仕事
作中でも引用されている『ロンピトラッタ』を皆さんご存知だろうか?
名前を聞いてもピンとこないと思うので、参考画像を下へ。
おそらく電気が灯く家庭で育った人であれば、誰もが知っているこのデザイン。このスイッチを発明したのがカスティリオーニその人である。
長いことお目にかかっていなかったが、生活の中に溶け込んでいるデザインだ。当たり前過ぎて、特別な感情を抱く隙もなかった。
その存在をよくよく確認してみると、温かみがあって、洗練されていて、使いやすくて、大変有り難いなと感じる。シンプルに「いいね!」と思う。
なるほど。存在が「有り難い」と感じたり、無条件に「いいね!」感じるのが「いい仕事」なのかもしれない。
カスティリオーニの仕事は、ある意味わかりやすい。ぼくたちが実際に手にとって、触れて、実生活で使っている商品だから。
ただ、そういったデザイン、意匠、製造に関わっている人がすべてではない。サービス業といった無形資産を扱っているひとが、今の時代は多いのかもしれない。
そういったすべての仕事に展開できるような「いい仕事」の輪郭をハッキリさせるために、もう少し抽象的に考えてみたい。
仕事を端的に表現する「離島モデル」
結論から述べてしまうけど、たぶん、その商品やサービスを媒介にして、手に取った人たちと「何を交換したのか」によって、それが「いい仕事」か、「テキトーな仕事か」が決まる。
著者が、美大の講義で「仕事とはなにか」を生徒と認識を揃えるために用いた図を、まずは見てもらいたい。
海に浮かぶ島は、こんなふうに見える。
店先に並ぶ商品。封切られた映画。新しくできたお店。それらは、この島のようなものだと考えてみたい。
海に浮かぶ島を「仕事」に見立てている。著者は次のようにつなげる。
目に見える部分だけで満足できるか、できないか。それはその仕事について自分がただのお客さんに過ぎないのか、それだけでは済まない何者なのか?という話につながるのだけど、とりあえず山に焦点をあてて話を進める。
水面の下の山は、こんな階層構造を持っていると思う。
この図を見て、なるほどと膝を打った。目に見える仕事は、まさに目に見えている部分であって、その裏側には、確かな技術や知識、その人の考え方や価値観が隠れている。
そして何よりたいせつなのは、作り手の「あり方・存在」が根源にある、ということだ。
著者も作中で言っていることだけど、チームワークをしているときに感じる虚しさは、「不在」によるものが大きいのではないか。
一緒に仕事をしている人が、どこか上の空だったり、テキトーな生返事だったりするときにぼくはとてもがっかりしてしまう。なんだかシラけてしまう。
「その人」が感じられない時、エネルギーの行き場を見失ってしまい、とても淋しい気持ちになる。
逆に、いい仕事をしている人は、なんだか「その人」がそのまま感じられる。それを「意思」とか「息吹」とか「生命」とか「魂」なんて言葉で表現されるのかもしれないけど。
機械的ではない、「真心」や「手心」を感じる、そんな仕事に触れた時、どんな気持ちになるだろう。
ちょっと考えてみる。たぶん、それは大きな差なんだと思う。
それはたぶん、ただ「利用する」といった消費行動ではなく、「敬意」や「感謝」といった心を差し出しているのではないだろうか。
よく、会社の同僚や先輩が「俺のことを使っていいよ」と言うが、どうにも後味が悪い。
では、ぼくたちが敬意や感謝を差し出したくなるような「いい仕事」には、なにか共通点はあるのだろうか?
いい仕事には「いる」感じがする
小さな人々であるぼくたちが、あるデザインやコンセプト、あるいは商品を受け取る。そのとき、ただの「消費」として金銭や時間を支払い、その対価として「便利さ」を受け取る場合、ある種の「つまらない」お買い物をしていると言える。表層的な交換だ。
一方で、心からの「いいね!」や共感、尊敬の気持ちを差し出すとき、ぼくたちは「いい仕事」から何をもらっているいるのか。どんな交換が発生しているのか。
著者の答えはこうだ。
結果として生まれるものがトマトであれ一脚の椅子であれ、本であれ、サービスであれ、それが「それ」になることを可能にしたひとつながりの働き全てを、わたしたちは<仕事>として受け取っている。
なるほど。と思った。
例えば、ぼくはSFアニメを観るのが好きだけど、作品を観る以外にも、監督のインタビュー記事やディスコグラフィーを見るのが楽しい。
アニメに限らず、作品にはその人の意思が宿っている。
意思というと漠然としてしまうが、その人の考え方・価値観、存在そのものが作品には投影されている。持って生まれた性質、生きてきた過程で獲得した知識や感覚、そういったあらゆるすべてが総動員されたものが作品なのだから、作品そのものが、その人の人生そのものであると言っても過言ではない。
前回の記事で押井守監督の『攻殻機動隊』が好きだと言ったけど、観ているだけでエネルギーが漲ってくる感じがする。
鑑賞後のアウトプットが「なんかすごい。かっこいい。」みたいな、ボキャ貧な感想になってしまうんだけど、なんだか鑑賞前の自分よりも、今の自分の方が生き生きした感じがする。
そのとき、『ぼく』は『作品』から「作り手の存在そのもの」を受け取っている。
生き生きした感じになるのは、その作品そのものが生き生きしていて、その影響をぼくが受けているから。
いい仕事には「いる」感じがして、それがぼくたちに伝わっていく。そこには作り手の存在がいる。
さて、いままでは、受け取る側の視点で検討を進めてきた。
でも、いい仕事ってなんだろう、という自問自答は、自分自身がいい仕事をしたい。そんな願いが背景にある。主体者でいたい、というのは誰しも思うんじゃないだろうか。
いい仕事は、その人のあり方や生き方、考え方や価値観から発せられる。では、具体的にどういった振る舞いが「いい仕事」の源泉になるんだろう?
非人間性仕事は「自分」を分離することで生まれる
少し回りくどいアプローチだけど、「いい仕事」の対極、「よくない仕事」はどのように生まれるのかを考えてみたい。
資本主義社会という言葉で大雑把に自分の社会をくくりたくないけど、損得感情だけで動いているな、という人を見かけることがある。
「それってどんなメリットがあるんですか?」「自分になんの得があるっていうんです?」という言葉をよく聞くのは自分だけだろうか。
これは個人的な感想だけど、ロスアンドゲインから生まれる仕事は卑しい感じがして、進んで手に取りたくないなと思う。
損得勘定で生きた人の貧しさを『クリスマス・キャロル』*1に感じるように、損得勘定で生まれた仕事は消費される運命なのだと思う。
仕事の豊かさの喪失をマルクスは『資本論』で述べている。 一部抜粋する。
資本主義システム内では、労働の社会的生産力を高める方法はどれも、個々の労働者を犠牲として行われるのであり、生産を発展させる一切の手段は、生産者たちの支配と搾取の手段に転化し、労働者を部分人間へと不具化させ、労働者を機械の付属物へと貶め、労働苦で労働内容を破壊する。そして科学が自律的力能として労働過程に合体されるほど、労働過程の精神的能力をド労働者に疎遠なものにする。
平たく言うと、職人の技をマニュアル化することで、労働の内容そのものが人から奪われ、人が機械化するということ。
この現象をマルクスは「疎外」というふうに言っているけど、言い換えれば、「仕事」から「自分」が分離されてしまい、単なる資本家の犠牲者になってしまうということだ。
このような状態で「いい仕事」などはできないだろう。部品として振る舞うことしかできないのだから。
ただこれは、あくまでも構造における傾向の話なので、その存在を一定認めた上で、そこから距離をおけばよい。絶望しても仕方ないから。
損得勘定を抜きにした振る舞い=「内なる光」がいい仕事の源泉
マルクスの資本論から「いい仕事」をすることが構造的に難しくなっていることを述べた。
今度は別の視点から覗いてみる。
宮台真司は上記の対談でが以下のようなことを言っていた。
みなさん、あまりご存知じゃないかもしれないけど、プラグマティストは「実用主義」という訳語は完璧に間違いで、正しい理解は「認識よりもコミットメント」ということです。 真理を理解しても体が動くとは限らないじゃない? だから、体が動くには心が動くもので、人は無謀だから「やめろ」と止めたとしても、「俺があいつを助けに行くぞ」というふうに、心が動く。これをプラグマティストは「内なる光」と言うんですね。エマソンの言葉です。
宮台真司の言う「内なる光」と同じようなことを著者も触れている。
以前、舞踏家の大野一雄がこんなことを言っていた
ーー咲いている花を見て、ああきれいだな・・・といつの間にかそばに近寄って、花にむけて手がのびる。この手はいったいなんだろう。ーー
花を摘むことではなく、その行為の直前の、思わず生まれてくる動きについて彼は語ろうとしている。
どちらも、損得勘定ではなく、「人間そういうもんなんだよ」としか言えない、情動の働きを言っているのだと思う。
自分がそれをしなくてはならない。他の誰かがやるのではなく、どうしても自分が、なんとなく自然とやってしまっていること。他人事で終わらせたくないこと。社会に差し出さざるをえないこと。
ある日、公共性の高い仕事を毎日夜遅くまで楽しそうにやっている友人に、仕事選びの相談をしたことがある。
そのとき、彼は「土日にやっても苦痛じゃないことを仕事にすればいいんじゃないか」と言ってくれた。
本質として、上の3つは同じことを捉えている気がする。
何もバイアスもかかっていない、ニュートラルな状態で、自分が自然とやってしまっていること。それを仕事にすればいい、と。
駅のホームで行き倒れている人に、思わず「大丈夫?」と声をかけてしまうような、そんな情動が仕事をつくる源泉になるんじゃないだろうか。
ぼくの場合、きっと「言語化」と「人との関わり」なのだと思う。
みなさんは、どうだろうか。何を仕事にしているのかと問われた時、どんな返答をしますか?
まとめ
仕事とはなんだ。これは永遠のテーマだと思う。
ただ、いい仕事だなぁ、と直感的に心が反応する瞬間に出会うことがある。そのとき、ぼくたちは敬意や尊敬の念を差し出す。
「ブランドとは意味である」と、あるマーケターが言っていた。*2
ブランドっていうとチープな響きを帯びてしまうけど、いい仕事に触れたとき、ぼくたちはその背後にある作り手の「あり方」や「存在」を受け取っている。有難いなぁと思ったりする。
それはまさに「意味」と「感謝」の交換だ。意味を「存在」、感謝を「心」と置き換えてもいい。
そんな交換をしながら、ぼくたちは生き生きした感じを受け取る。
そして願わくば、受け取ったことを、自分の仕事の成果に繋げて、「生き生きした感じ」を伝播させていければなと思う。