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乱読千夜一夜

本と記憶を繋いだり結んだりするブログ

「わかったつもり 読解力がつかない本当の原因」感想

今日のお題

「わかったつもり」という内心ギクっとしそうな本を読みました。

 

読破までは4時間ほどかかりました。

総評

超主観的評価

読みやすさ:★★★★★

読後感:★★★★☆

補足という名の蛇足

抽象的な説明と具体例を往復しながら文章が展開がされるので、理解が自然と深まっていきました。「わからない」ではなく「わかったつもり」が読解を妨げる要因になっており、これに立ち向かうことが真の課題である、と著者は言います。「わかったつもり」という手強い問題と対処法が深いレベルで腹落ちさせることができました。

このページ数でこの説得力は圧巻です。

すぐに実践に活かせるような考え方・テクニックを提示してくれているので、「わからなさ」に対するネクストアクションが取りやすいです。

ただし、モヤモヤしたところがあえて言うなら1点だけ。

本書の問題領域である「わかったつもり」に到達するためにも、言葉の関連づけや、単語の意味理解、文脈の引き出し力など一定程度求められます。つまり、本書でのアンチパターンにたどり着いた時点で少なくとも「ある程度読めている」と言えます。テキストや書籍によっては、それ以前に読むことを投げ出してしまうような「何がわからないかすらわからない」という諦観に至ることもあります。この行き詰まりに対するテーゼにも多少触れてもよかったかもと思いました。

ただし「圧倒的なわからなさ」は本書とは別テーマな気がするので欲張りすぎな気もしています。個人的に「ある程度文章内の単語を関連づけて読めること」すら怪しい場合があるので、モヤモヤが残っただけだと思います。

この本のメインテーマである「わかったつもり」という厄介な代物の正体、そしてその対策という示唆を得られた時点で、とてつもなく多くの学びがありました。

手に取った背景・問題意識

私ごとですが、仕事現場でテキストや口頭ベースでコミュニケーションをとっているとき、なんか自分の言いたいことが伝わってないな、相手の言いたいことがわからないなというシーンがあります。

そんなとき「コンテキストが揃ってない」とか「文脈がわからないので教えてほしい」とかをごく自然に言う機会が多いわけだけど、そもそもからして文脈って一体何だろう、文脈がないと理解不能状態になるのはなぜだろう、という疑問がふと芽生えたのがきっかけでした。

この疑問を解決するために、「コンテキスト」「文脈」「認識のずれ」「わかる」「わからない」というキーワードでamazonにて検索を開始。目についたのがこの本でした。

まずはテキストの読み方について理解を深めていければという気持ちで購入しました。

まとめると、どんな本だったと言えるか?

読解する力とは文字通り「読んでわかる」力のこと。逆に読解ができないとは「読んでもわからない」ということになります。本書では、この「わからない」という状態よりも「わかったつもり」という状態が「読み」を妨げる要因になると言っています。

「わかったつもり」というのはある種の安定状態で、「わかる」という状態から途方もなく距離が離れてしまっていると主張しています。

わかったつもりがなぜ安定状態なのか?

安定状態というとポジディブな印象を持たれるこもしれませんが、ここで言う「安定」とは「それ以上動かない」というネガティブな意味で使われます。

思考実験的になりますが、何か自分自身がわかりたいこと、興味を持った対象があったとして、それが「完全にわかる」ということはあり得るのでしょうか?

おそらく、深堀りをしようと思えばどこまでもできるので、理解度の完全性はある種の思い込みでしか成立しません。

例えばですが、ハンナアレントという哲学者について調べたとします(自分は哲学が好きなので、例に出しました)

そのとき、彼女の出版した書籍として『全体主義の起源』『人間の条件』『エルサレムアイヒマン』などを知ったとします。そして、各書籍の「要点」(正確には要点と思われる要素)を抜き出して自分の知識に定着したとします。

ハンナアレントユダヤ人でナチズムの被害者と言えるが、亡命により全体主義の局地であるホロコーストの犠牲者にならなかった。アメリカへ亡命後、1951年に『全体主義の起源』を出版する。彼女によれば全体主義とは野蛮への回帰などではなく一つの政治形態であり、国民国家の生成および崩壊の過程と同様の軌跡を描いている。。。

などと自分の理解を言語化して整理することは可能です。

さて、今の私の理解状態は完全でしょうか?当然、そんなことはありません。例えば、ハンナアレント全体主義の起源を執筆するに至った背景はなんでしょうか?彼女のルーツや成長過程とリンクしてる部分はあるのでしょうか?どういった思想家から、どのような影響を受けたのでしょうか?

といった具合に、あらゆる観点から疑問が生まれるのが自然です。疑問が生まれ、追及するプロセスが生成され続ける限り、常に知識が更新され続けるので、理解度の状態は不安定です。

不安定な状態であるからこそ、「わかろうとする力学」が働きます。

裏返せば、「わかった(つもり)」という状態である限り追及したり深堀りしたりするモチベーションが生まれ得ないので、その状態で安定します。

わかったつもりの正体は、自分自身が無意識的に「わかった」という安定状態にある錯視だと言えます。

 

まとめ

私の問題意識をざっくり言えば「わからなさはどこからくるの?どう対処すればいい?」でしたが、満足すぎる回答が得られたと言えます。

ただし「なるほどわかった!」と言った瞬間に著者から「わかったつもりの罠にハマってないか?」と問われている気分になるので、「ある程度は理解できたが、まだわからない部分があるので引き続き学ばなきゃいけないなあ」というぐらいがちょうどよさそうです。

ついつい私たちは脳の負荷をかけたくない衝動に駆られますが、「私は本当に理解したと言えるか?いや、言えない。なぜか?」という自問自答を繰り返すことが「理解した」という状態に近づくための唯一無二の方法なのかもしれません。