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人間の性質は生まれつき備わったものか?プナンの人々と僕たちとの距離。

 

ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと

ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと

  • 作者:奥野 克巳
  • 発売日: 2018/05/24
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

「ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと」(著者:奥野克己)を読んでいると、マレーシアのサラワク州の狩猟民族プナンの反省しない文化や所有しない慣習は生まれつきなのか?という疑問が沸いてくる。

先進国で生活する僕たちは“反省”を強要された暮らしが当たり前だ。特に会社組織では定期/不定期問わず“反省”を余儀なくされていて(たとえばタバコ部屋での説教や、半期フィードバック面談でのダメ出し、ステークホルダーからの360度評価など)“カイゼン”なくして進歩なしという無言の圧力を受け続けている。学校組織での通知表文化などは言うまでもない。

誰もが「学べ」という言論と隣り合わせに生きている。

営利組織に所属する以上、資本主義の原則に則れば直線的な時間観念で考えなければいけないし、右肩に傾き続けることが共同体の存続条件なので仕方ないといえば仕方ないが、とにかく反省する精神性が板についてるのは間違いない。

“反省”は僕たちの当たり前だけど、プナンの人たちにとってはそうではない(と、2006年からフィールドワークをしている作者が見ている)

プナン人の反省しない習慣を、著者の奥野克己はこんな風に紹介している。

ある時、共同体のリーダーは、もともと彼らの土地である森林に対する木材伐採企業からの賠償金を前借りして、それを頭金として、四輪駆動車を購入した。

不思議なことに、老いて狩猟行には同行しないリーダーにはいつも売上金の十分の一ほどの金額しか手渡されなかった。

売上金で酒を飲んだに違いないという噂が、女たちの間に広まった。リーダーもそのことに薄々気づいているようだったが、あえて取り沙汰しなかった。

案の定、売上金が酒代に消えてしまってうやむやにされる事態はその後も続き、結局、ローンの支払いのためのお金を捻出することができなくなって、わずか二ヶ月あまりで四輪駆動車を手放すことになった。

ここまでが所謂プナン人の"失敗談"なのだが、次の展開を僕たちの感覚で想像すると、この"失敗"の根本原因を断つような努力を想像するだろう。

しかし、プナンの現実は以下の通りだ。

狩猟や漁労に出かけたり、用事で出かけたりする時、失敗や不首尾、過失について、プナンは個人に責任を求めたり、「個人的に」反省を強いるようなことをしない。失敗や不首尾は、個人の責任というよりは、場所や時間、道具、人材などについての共同体や集団の方向づけの問題として扱われることが多い。失敗や不首尾があれば、話し合いの機会を持つが、そこでは、個人の力量や努力などが問題とされることはまずない。ましてや個人の責任が追求されるようなことはなく、たいてい、長い話し合いの後に、あまり効果を期待できそうにない今後の対策が立てられるだけである。

なんとも不思議なのである。

著者の感想通り。まさに不思議で、「なぜなのか?」という疑問が湧いてくる。

で、何が「なぜ?」なのかというと、僕たちのやり方・有り様との差分についてなのだが、根本的に違うのは、責任の所在だ。プナン人は失態を個人に帰属させないようだ。

プナン人の特徴について著者は以下のように感想を述べている。

一見すると責任放棄主義に見えるプナンのやり方を、フィールドワークをつうじて、少しだけ羨ましく思うようになった。

プナンの人たちの責任を追求しないスタンスは、僕たちのそれとは真逆と言ってもいい。

極論すると、僕たちは反省や改善、成長という綺麗事を通して、相手の内面を矯正しようとしている、とも言える。組織や個人にとって都合が悪いこと(クラスの雰囲気が乱れているとか、チームの業績が悪化しているとか、家庭の貯蓄が一向に貯まらないとか)の原因を、特定の個人(或いはシステム)に追求することが当たり前になっている。システムに原因がある、という言葉もよく耳にするし自分も使うが、心のどこかで「まぁあいつが悪いよな・・・」「俺が悪いんだろうな」と思ってるのが本音だ。こういった問題児叩きの構造は、主体であれ客体であれ誰しも経験していることだと思う。

責任を誰かのせいにして、そいつを改造しなきゃいけないと無意識に思っている人が存外多いのではないだろうか?これは耳の痛い話なので、全員が全員「そうかもな」とはいかない。

そんな社会が息苦しい、と感じてしまうのは僕だけだろうか?かと言って、反省のない人間は「進歩がないな」と脊髄反射的に思ってしまうし、自分が同じ失敗を繰り返したときも、悔しさが滲む。

もちろん、どっちが良いか白黒つけようとも思わないが、こういった、決定的な特徴があるのは間違いない事実なようなのである。

内省心という功罪を背負った僕にできるのは、いろんな角度から検討して、生きる糧にすることぐらいだ。まぁ自分が好きだからやるだけなんだが。

僕たちとプナンの違いは氏か育ちか?そもそも社会性とはなにか?あたりを取っ掛かりに、僕たちとプナンの文化を言ったり来たりしながら考えていきたい。生まれつきの問題なんじゃない?とか3秒で答えらるツイッタークソリプみたいな回答ではなく、自分が触れた知識や、識者の意見を参照ながら、色んな切り口をのんびり考えていく。

脳科学の視点 


人間の性質は「生まれと育ち」のどちらで決まるか【上智大学講義④】

 

脳科学者の中野信子は"nature or nurture"の考察について、犯罪者の遺伝性を参照している。

アメリカの囚人でジェフリー・ランドリガンという人がいるんですね。この人が、生まれてすぐに養子に出されて、裕福な家庭に育ったんだけれど、心の抑制ができずに癇癪を起こしたりして、10歳でアルコールに浸ってしまう生活になる。

その子は、強盗や薬物事件を起こしたり、さらには殺人まで犯してしまって、逮捕収監されてしまうのだが、収監されていたアリゾナで他の囚人から「お前によく似た詐欺師に会った」と言われるんですね。

その詐欺師という人は、また別の収監されていたんですけれども、その人物がなんと、自分を養子に出した実の父親だったんですね。

育った環境はすごく裕福で恵まれていたにも関わらず、お父さんと同じことをしてしまって、遺伝子怖いねぇという話であるんですけれども。

なんともぞっとするストーリーだが、エイドリアンレインという犯罪心理学者の著書「暴力の解剖学」でも上記が触れられている。

暴力の解剖学: 神経犯罪学への招待

暴力の解剖学: 神経犯罪学への招待

 

 彼の主張としては、以下のとおりだ。

  • 反社会的な行動のうち40〜50%は遺伝によって説明できる
  • 環境要因は4%程

めちゃくちゃ取り扱いの難しいセンシティブな話題を拾ってしまったなぁと思ったが、あくまでもエイドリアンレインの意見ということでフラットに参照する。

彼の見解に従うのであれば、極論、反社会的な行動を取るのは半分以上が両親のせい。ということになる。ただ、この研究結果は、プナンと僕たちの違いの原因を探る拠り所にするには頼りない。

ただ、彼の主張に対して中野信子が述べていることは、社会性とは何かについて考えるためのヒントになりそうだ。

反社会的な傾向がそのまま犯罪に結びつくのか? というと必ずしもそういうわけではない。反社会的な傾向が社会で成功するために必要だ、という部分もある。

一方で、社会的に非常に成功している人にもいい人が多い。非常に成功してる人は(※自分にとって不都合な人にいいように)使われない術をちゃんと知っている。それをしない、搾取されるだけのいい人は、反社会的行動を取る人に搾取される対象になってしまう。生きにくい世の中になってしまうかもしれませんね。

ここでは、「搾取される」というのがキーワードだ。

そもそも社会性とは何かというと

集団をつくって生活しようとする性質(広辞苑より)

なので、反社会的存在とは、集団生活を脅かすものと捉えられる。また、反社会的な行動が遺伝によって説明できる可能性が高いのだとしたら、社会性を再教育することもまた難しいと言える。

自分個人の経験としても、サイコパスや性癖を社会に持ち込むパワハラ常習犯をいくら諭したところで、彼(彼女)の行動や意見が変わることはほとんどなかった。むしろその傾向は強くなっていくように感じられた。刑罰(強制的な異動や退職、罰金)の対象になる人も何人か見てきたが、また別の場所で同様の行動をしているのを観察すると、途方も無い気持ちになったものだーあの”モンスター”たちは今頃どうしているだろうかー

エイドリアンレインの研究を参照すると、ある種の反社会的存在は、遺伝的制約によって社会的な反省ができない可能性があると指摘できる。

これは僕個人のちっぽけな経験による仮説だが、サイコパスパワハラ常習犯、つまり搾取に取り憑かれた人は、所有欲が異常に高い傾向にあるのではないか。相手が持っている性質(物質的なモノだけでなく、身長や容姿、富や名声なども含めて)を自分のものとして所有したい、専有したいという独占欲が強いので、搾取しようとするのではないだろうか。

僕たちの身の回りでも、「搾取される側、搾取する側」という二元論が語られることがある。逆に言えば、所有するという概念さえなければ、社会的に平和で幸せな集団が形成できるのではないだろうか?

プナンの人たちの、物を持たない生き方は、そんな理想郷を体現しているように思える。

人類学者の視点ープナンの贈与論とビッグマンー

プナンの所有しない文化を著者は以下のように語っている。

プナンは、つねに、もらったものを惜しげなく誰かに分け与えることが期待されている。私が年二回のペースで訪れる際に、いつも世話になっている男性の家族にお土産として持っていく時計やポーチ、バッグなどは、すぐにそれらをねだる別の誰かの手に渡る。さらにそれらは、また別の人へと渡っていく。遠く離れた森の狩猟キャンプを訪れた折に、見知らぬプナンの男が、私がある人物にプレゼントした日本製のウェストポーチを身に着けたことがあった。

最も尊敬されるリーダーはビッグマンと呼ばれ、最も発言力が強いと言われる。ビッグマンは、与えられた物をすぐさま他人に分け与える人物だ。

要は、持たざる者こそ最強なのである。

この事実は、僕たちの感覚とは真逆と言っていいほどずれている。ただ、他者にGiveする精神とその精神を持つもの、ギバーは世間から称賛される。TEDでバズったアダム・グラントもギバーの文化の素晴らしさを説いている。

www.ted.com

本当の価値は持たないことにあるんじゃないか?と心のそこでは感じている人は少なくない。

所有に執着するケチな精神を持っていることで逆に貧しくなるのは、物理法則として真逆の印象だが、豊かさとはなにか?という問の答えが”資本をたくさんもっていること”にならないように、奪うこと、搾取することで”豊かであること”から離れていくようにも感じられる。

日本人である僕たちと、プナンとの距離は、一体どれほど離れているのだろうか?

まとめ

集団の構成員ではない、”誰でもない何か”を悪者にすれば、誰も傷つかない。逆に、誰かのせいにすると、その人が傷つく。僕たちの生活には、犯人探しの文化が根付いてる。

反対に、プナンのひとたちはタイミングや環境、人材不足などの“私”意外に原因を求める。“私”とは自分自身も含まれるし他者も含まれる。

僕たちの感覚からすると責任放棄主義と見做したくなるが、それは集団全体の幸せであり、個人の幸せにも繋がる営みなのかもしれない。

また、所有しない、反省もしない、というのは、あくまで「個人では」という注釈付きな気がする。奥田克己氏がプナンの人にあげたロレックスの時計も、他のプナン人に渡っているだけで、集団として所有しており、それが循環していると見做すこともできそうだ。

個人としてのエゴを脱ぎ去り、自分たちはあくまで大きな社会システム一部である、という諦観というか無抵抗主義をプナンの人々から感じることができるし、僕もそうありたいものだと思わせてくれる。

僕には2歳の娘ともうすぐ3ヶ月になる息子がいて、特に娘は他人の物を欲しがる。つい最近では公園の砂場に放置されていたシャベルを見つけて、これは最初から私の物であったと言わんばかりに振り回して遊んでいた。しばらくすると3歳ぐらいの男の子が現れて、それは俺のだから返せと言う。娘は胸元にシャベルを引き寄せて、嫌だと言う。

両親の説得の後しばらくして、娘は男の子に渋々「どうぞ」とシャベルを差し出した。

目の前の物を欲しがり、抱いて離そうとしない構造は、どうやらプナンも日本も同じようなのだなと感じた。

ただ、子どもたちの「ちょうだい」「どうぞ」のやり取りが終われば周囲の雰囲気は和み、娘も友達も、双方の両親たちにも幸せな空気で満たされるものだ。三方良しである。

プナンの人たちや娘のやり取りを見ていると、もしかしたら、他者を侵略しまいとするのが人間の本性かもしれないと揺らぐ一方で、無抵抗に贈与する美徳こそ、僕たちが幸せに社会生活を送るための特効薬なのかもしれないという確かな予感を覚えた。

一方で、僕たちの国では搾取しようとする人を見抜く目も養うことも大事なんだけれども。

参考にした題材

  • ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと

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  • 人間の性質は「生まれと育ち」のどちらで決まるか【上智大学講義④】


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  • 暴力の解剖学: 神経犯罪学への招待

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  • TED:アダム・グラント「与える人」

www.ted.com