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乱読千夜一夜

本と記憶を繋いだり結んだりするブログ

存在と時間ーハイデガーの作家性ー

前回の記事で書いた「理想的な関係性の問題」を飽きずに考えていました。

考えを前進させるために、コミュニケーション論や社会学の書籍を中心に読みながら色々とモヤモヤしていました。

  • 「関係」の前に、個人や他者が「ある」というはそもそもどういうことか
  • 本質的な”ありかた”とはなにか
  • 一般的な大衆と私に区別はあるんだろうか
  • その区別があるとしたら境界線はどこにあるのだろうか

人間関係というテーマにいく手前に「個人」とか「存在」というテーマが立ちはだかっている感があって、実存主義的な考えに触れようという気分になったのだ。

そこで手にとって”しまった”のがこちらです。

 

実際に読んでみて

すみません、まったく歯が立たちませんでした。

そもそも文章の構成として主語、述語、動詞がどうやって繋がってるのかを読み取るのに骨が折れる。

マルティン・ハイデガーの『存在と時間』といえば難解本で有名だが、難解たらしめている最大の要因はハイデガーの独自用語がふんだんに使われているからだろう(冗談抜きで造語が連発されている)

「現存在」「世界内存在」「歴史性」「ひと」「時間性」「投企」「被投性」...などのピンとこない言葉で展開していくので、まぁ初見殺しなのである。各種の造語は「ハイデガー語」とも言われるみたい。

でも、ベストセラーなのである。なぜか?

めちゃくちゃ難しい本なんだけど、不思議なもんで、読まされる。

グッと引き込まれてしまう魅力に溢れている。俗っぽい言い方をすると、ものすごくカッコいい。ヤバい中毒性がある。

原文を読んだことがないのでハイデガー自身の文学的なセンス故とは断言できないが、読み進めていくと、得体のしれない”何かすごいもの”の手触りを感じるのだ。

さて、この厄介本をどうやって糧にするか、だ。

仲正昌樹先生の力を借りる

『現代哲学の最前線』の著者である仲正昌樹先生がハイデガー初心者向けの本を出しているというので、早速購入。読んでみました。 

 結果、超大正解。『存在と時間』を読むための予備知識・考え方が、体にスーッと染み渡りました。本当に感謝です。

完全に余談ですが、文体の随所に現れる著者の反骨的な姿勢が大好きです。

さて、導入書を踏まえて「存在と時間」はどんな本だったのか。

率直な感想

まず、自分は哲学についてズブの素人です。

自分の理解・解釈を述べますが、何か間違いなどがあれば指摘をしてもらえる大変嬉しいです。理解をより深めたいなと思うので。

これは有名な話だし『ハイデガー哲学入門』の冒頭でも触れられているが、マルティン・ハイデガーの代表作である『存在と時間』は未完の書である。

存在と時間との関係をまさに論じようかと腰を上げたところで、突然幕が閉じられてしまう。

ちなみに、最後の数行はこれである。雰囲気だけでも。

現存在の全体性が有する実存論的ー存在論的体制は、時間性にもとづいている。それゆえ脱自的な時間性のものにぞくする。或る根源的な時間化の様式が、存在一般の脱自的な投企を可能にするものであるはずである。時間制がこのばあい時間化する様態は、どのように解釈されるべきなのか。根源的な時間から、存在の意味へとつうじるひとつのみちすじがあるのだろうか。時間そのものが、存在の地平としてあらわになるのであろうか。

おわかり頂けただろうか。ここでは大事な結論が述べられておらず、最後は問題提起のような形で終わっている。

この結末に対して、いや最後までやれよ、という意見も少なくないみたいだ。

ただ、自分個人としては、充分過ぎるほどの示唆をもらえた感覚がある。

なぜかというと、ハイデガーの主張が俺の問題意識のアンサーになったから。

(再掲)

Q1「関係」の前に、個人や他者が「ある」というはそもそもどういうことなんだろうか

Q2本質的な”ありかた”とはなにか

Q3一般的な大衆と私に区別はあるんだろうか

Q4その区別があるとしたら境界線はどこにあるのだろうか

それぞれに対して、ハイデガーの考えを引用しながら、自分なりの解釈をしていこうと思う。

Q1「関係」の前に、個人や他者が「ある」というはそもそもどういうことなんだろうか

人間にかかわらず、◯◯がある、〜である、△△が存在する、という場合の「在る」とか「存在する」というのは何なのか?

まず、「存在」の捉え方によって異なる。大きく2つに分けると、どのように「存在」しているのか、「存在」とはそもそも何か、ということだ。前者については、存在の条件を規定すればいいので、これは哲学の領域ではない。場所や、時間、環境から規定すれば、それが解答になる。

後者についてが厄介で、存在という言葉を使わずに存在を規定しなくてはならない。なので、新しい概念を持ち出す必要がある。

ハイデガーは「現存在」と「世界内存在」という概念を導入した。

なぜこんなややこしい、馴染みのない言葉を定義したのか。それは、「我思うゆえに我あり」というデカルト以降の存在論を解体するためだった。これは本筋からズレるので詳細は省きます。

話を戻すと、ハイデガー曰く、我々は「世界に投げ込まれた存在」ということらしい。

世界という、どうしようもなくそこにある、広い意味での環境に、ポンと、特に因果もなく放り込まれたのが我々なのだと言う。これを「世界内存在」と呼ぶ。世界には、動物や道具や自然などの存在もあるが、それと区別して、存在自身のことを問える存在を「現存在」と呼ぶ。

なんだか突拍子もない思いつきに聞こえるかもしれない。ただ、この世界観の優れたところは、そもそも我々が存在するのは、わたしたちが観測不可能な力によるもので、投げ込まれた=生まれ落ちた意味など最初から“ない”ということにある。要は、我々の生スタート地点は“無”なのだ。

かつ、「現存在」としての我々は、自らどう生きるかを「意志する」ことができる。ここに希望と絶望がある。

Q2本質的な”ありかた”とはなにか

「現存在」の希望と絶望の両面をそれぞれ直視することから、本質的=本来的な“ありかた”を検討していきたい。

まずは絶望の面についてだが、ハイデガーの言葉を借りれば「ひと」と「頽落」という概念で説明できる。

「現存在」は「世界内存在」として、世界に投げ込まれ、重力に似た性質を帯びる。それが「頽落」だ。生起した時点では無=なんでもありな存在なわけだが、大衆という巨大な重力場がどうしようもなく横たわっている。大衆のことを「ひと」と呼ぶ。個別性が剥がされ、平行化・水平化された集団、場として「ひと」に次第に「現存在」は飲まれていく。意志なき自己と呼んでも差し支えない存在へと下降していく。この抗い難い性質に絶望がある。人によってはアイロニックに、シニカルに生きる理由になるかもしれない。

ただ、それを裏返せば「ひと」からの離脱=個別化にこそ、本来的な在り方、生き方が開示されている。

Q3一般的な大衆と私に区別はあるんだろうか

「投企」が希望の部分である。「頽落」という性質に支配された我々が脱「ひと」化するためにはどうすればよいか?

「投企」による「決意性」と「時間性」の獲得が鍵を握っている。

「投企」とは、「頽落」によって失われた自己像を取り戻すための行為、と捉えていいと思う。

自分なりに言い換えると、ある種の、こうなりたい、こんなふうにありたいというイメージを遥か前方に放り投げ、よしあそこへ向かうぞと決意し、確実に歩みを進めていくことだ。「投企」によって「ひと」から「脱自化」することで、本来的な生き方が、決意によって可能になる。

その結果、自分の周りにあるものや出来事が、なんの脈絡のない、自分と無関係な、事件的なものではなく、自分にとっての重要な物語の一部へと変化する。

その力場を生み出す源泉のようなものを「命運」とハイデガーは呼ぶ。

Q4本来的、非本来的の区別があるとしたら境界線はどこにあるのだろうか

「投企」をある角度から見てみると、自分の可能性の規定と言える。あれ、これと悩むが、結局のところ、とある将来イメージを決めなくてはならない。

将来のイメージは可変的であるが、唯一確実で、必然的に訪れる可能性がある。ずばり「死」という不可避の状態である。

到達が唯一約束されている「死」に向かう我々を「死への先駆」と呼ぶ。飛躍して言えば、生とは死を内包しているのだ。この厳然たる事実を直視、自覚して生きることを、本来的な「現存在」の姿だ。

死を意識し「投企」しているという「心理的事実」が、本来的か否かの根拠になるという。これがハイデガー流の線引きである。

中間整理

無から始まり、死へと向かう存在だからこそ、自らの決意によって開ける生がある。だとすれば、何も悲観する必要はないと言える。ゼロからのスタートなのだから、自分だけの形を想定し、そこに全精力を注げばいいのだ。

そんなQAを自分の頭の中で繰り返していると、ある人物のことが浮かんだ。

『大衆の反逆』との接点

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『大衆の反逆』の著者、オルテガなんですけど、めっちゃかっこよくないですかこの人?

オルテガハイデガーに影響を受けているかどうかを調べたわけではない。

なので正確なことは言えないが、大衆の反逆で言及している、「大衆」と「少数者」の二項関係ハイデガーの価値観と近似している。

大衆の反逆は、どちらかといえば大衆化する社会に警鐘を鳴らし、貴族的な生き方を奨励する啓蒙的な本だと感じる。

それに対してハイデガーがやろうとしていたのは脱構築的な、ある種の解体作業だった。

書籍の趣旨はそれぞれ全く異なる。

ただ、オルテガの「大衆」はハイデガーが言うところの「ひと」であって、「少数者」とは「脱自的」で「投企」された個人とも読み取れる。

更に、最も接近している観点は、二人の歴史観だ。

オルテガは、一般大衆が「われこそが時代頂点」という奢りをもち、「偉人はレガシーだ」という不遜な態度を問題視していた(要は、お前ら調子に乗るなよ。というメッセージ。)

ハイデガーは、自らが自分の意思で「投企」することで、「現存在」が「時間性」を獲得し、本来的な実存=生き方に繋がると説いた。

集団から離脱し、本来的な生き方ができる人は、実際にはごく一握りだ。これはオルテガの「少数者」と同じ位置にいると言える(オルテガは、精神貴族的な意味合いをもたせているようにも思うけど)

さらに、ハイデガーは、本来的な「現存在」は「歴史性」に、ある程度拘束されているという。

拘束という言葉を使っていないが、イメージとして、大衆から受け取った遺産や財産(物質・非物質すべてを含む)から完全に独立することはできない、ということを言っている。

簡単に言えば、自分なりの生きがいや生きる意義を発見したとする。それが作家でも、役者でも、研究者でもなんでもいい。何か自分が掲げる理想像に向かうとき、それは完全なオリジナルなのだろうか?

残念ながらNoだ。完全な自主性というのはロマンティークな幻想だ、とジラールも言っている。

完全に自分個人だけの意志で、ある考えだったり、行動ができるわけではなく、過去から連綿と引き継がれた技術や思考、意志などを引き受けている、とハイデガーは言う。

この公共的な”バトン”のようなものを「歴運」とハイデガーは定義して使っている。

「歴運」を引き受ける、というのは、見方によっては偉人に敬意を示し、その功績を参照しつつ謙虚に生きるというメッセージ性を読み取ることができる。

これはオルテガの考えにかなり通ずるところがあるのではないだろうか。

超単純化すれば、自分なりに、自分の理想や理念を追いかけて、実際にやってみるのが本来的な人間の在り方なんだけど、「脱社会的な存在」になっちゃダメだよ。みたいなことを、ある側面でふたりとも言っているんじゃなかろうか。

その一致性を感じたとき、国境を跨いだ二人の知の巨人が、とても身近に感じられた。

まとめ

ハイデガーの『存在と時間』を、仲正昌樹先生の『ハイデガー哲学入門』の力を十二分にお借りしながら、読み進めていった。

結果として、自分の問題意識にクリティカルヒットするところが多く、大変重要な示唆をもらったように思う。

また、オルテガとの意外な接点も発見することができ、自分の思考がよりアップデートされたのは間違いないだろう。

これは個人的な感想でしかないが、ハイデガーは作家性のある人物なのではないかと感じた。それも、とてもヒューマニズムな。

存在と時間』を読んでいると、独自用語がとにかく多い。これは、既存の哲学を支配している「意識ー無意識」という規定をぶっ壊すため役割、という見方もよくわかる。

それとは別の観点で、ハイデガーのスタイルからは創作をつくるための「設定っぽさ」を感じるのだ。ひとつのSF小説やゲームをつくるための舞台装置や世界観を丁寧に説明されているような思いになるのだ。

さぁ世界はつくっておいたから、お前ら好きにに遊ぶといい、というハイデガーからのメッセージを感じる。

彼の言う「世界内存在」として「被投性」をもつ「現存在」というのは、まさにSF的だし、「非脱自的」というのはたぶん覚醒するっていうことだ。

世界というフィクションの中で、自分が(自分に)目覚めるというは、なにかロマンがある。

「命運」を意識した個人には、身の回りのあらゆるものが意味づけされる、というのも、生きる希望に繋がる。

一方で「歴史性」や「歴運」などといった、過去への敬意や、「ひと」との連帯、連続体としての個人、という土着なコミュニティ意識も感じられる。

右にも左にも極端に傾倒しない、ある種保守的なメッセージだとも言える。それに書いていることは激ムズときた。

しかし、読後の感想としてはどうだろう。

なんだか優しさというか、温かみに包まれる。

ハイデガーとは本当に人間的な人物だったんだなと思う。

気づけば俺もハイデガーのファンになっていた。