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乱読千夜一夜

本と記憶を繋いだり結んだりするブログ

たった一人の熱中。自分なりの生活の飾り方

昨年の大晦日に友人から紹介された書籍を読んでみたら目から鱗がポロポロとこぼれ落ちた。

暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)

暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)

 

そもそも、ぼくたちはなぜ退屈するのか。どうやって暇を使えばいいんだ、みたいなことを話していたときに、実はこんな本があってね、と紹介されたのがきっかけだ。ぼくは紅白歌合戦を観ながらAmazonの注文ボタンをクリックした。

Decor & Design

ウィリアム・モリスというイギリス人をご存知だろうか?『暇と退屈の倫理学』の序盤で引用されている人物だ。この人の言葉があまりにも美しかったので、来歴をかんたんに紹介したい。

彼は産業革命の只中でマルクス主義にポジションを置いて活動していた思想家であり、デザイナーでもある。政治思想・政治活動の内容はさておき「モダンデザインの父」と呼ばれた彼の民藝文化に対する貢献と影響は計り知れない。

当時のイギリスは産業革命の成果によって、商品がプロレタリアート(労働階級)の手で大量生産され、それが消費されるようになった。

ここで重要なのは、繁栄の裏側で、職人の美しい手仕事が風化されていった点である。

この状況に危機感を覚えたモリスは、プロレタリアートに手芸文化を解放し、生活に芸術を取り戻すべく『アーツアンドクラフツ運動』を起こし、結果としてモダンデザインの潮流をつくった。

彼が一般的な社会主義者と違っていたのは、産業革命のあと、豊かな生活を取り入れたあと、日々の労働以外の何に向かっているのか?という問題意識があったことだ。活動家の立場にいながら、未来を憂いているのは稀有な例に思う。その問いに対して、彼はこう答えている。

革命が到来すれば、私たちは自由と暇を得る。そのときに大切なのは、その生活をどうやって飾るかだ。

なんて美しいんだ、と心を打たれた。救われる気分だった。

でも、なぜこの言葉が刺さったのだろう?

"好き"の証明。例えば『鬼滅の刃

鬼滅の刃を例に出すのは説明が手っ取り早いからであって、ぼく自身はアンチ鬼滅ではないことを念の為断っておく。アニメ版も漫画も割と好きな部類だ。ufotable版19話は『僕アカ』40話と並んで、アニメ史に残る神回だと思っている。

ただ、映画版の興行収入を巡る全体主義的な動きや、街を歩けば鬼滅グッズを見ない日はない昨今の状況には気持ち悪さを覚える。

疑問なのは、世の中の人はほんとうに鬼滅の刃が好きなのだろうか?だ。

國分功一郎は『暇と退屈の倫理学』の中で、こんなことを言っている

人間に期待された主体性は、人間によってではなく、産業によってあらかじめ準備されるようになった。産業は主体が何をどう受け止めるかを先取りし、あらかじめ受け止められ方の決められたものを主体に差し出している。

これは何を言ってるかでいうと、例えば自分の好きな漫画を友達に紹介するときに、ベストセラーを上から並べてしまう人のことを言ってる。需要と供給が逆転している構図だ。

鬼滅の刃を本当に自分は好きなのか?それともあらかじめ準備されたニーズを自分のニーズと錯覚しているのか?その証明をするのは極めて難しい。

國分功一郎は次のように続ける。

もちろん熱いモノを熱いと感じさせることはできない。白いモノ黒に見せることもできない。当然だ。だが、それが熱いとか白いではなくて、「楽しい」だったらどうだろう?「これが楽しいってことなのですよ」というイメージとともに、「楽しいもの」を提供する。たとえばテレビで、ある娯楽を「楽しむ」タレントの映像を流す。その翌日、視聴者に金銭と時間を使い、ある娯楽を「楽しんで」もらう。私たちはそうして自分の「好きなこと」を獲得し、お金と時間を使い、それを提供している産業が利益を得る。

大衆向けに大量生産した作品を消費させて利益を得る産業のことを文化産業と呼ぶ。

鬼滅の刃ブームに感じる気持ち悪さの正体はこれである。ぼくたちの「好きなこと」は生産者の都合によって作られている、その手法に絡め取られているのではないか?という違和感である。

ではぼくたちはどうすればいいのだろう。文化産業に暇を搾取されるしかないのだろうか。

その問いにモリスが美しい言葉で答えてくれているのだ。

革命が到来すれば、私たちは自由と暇を得る。そのときに大切なのは、その生活をどうやって飾るかだ。

そう、ぼくたちは、生活を「どう飾るか」が何より大事なのだ。

じゃあ具体的に何を、どうやって飾ればいいんだろうか。

ブームから離れる たった一人の熱中

昨日、CATVをザッピングしていたら『GHOST IN THE SHELL』が放映されていて、食い入るように観てしまった。トータルで10回以上観ているだろうか。

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「近未来SFの金字塔」と絶賛されており、もはやアニメの枠組みを越えて評価されている作品だ。今更ぼくが批評するまでもないので詳細は省くが、全編を通して、極めてリアルな世界観で描かれており、鑑賞中は固定観念をガンガンに揺さぶられる。

自由意志は存在するのか?人間とアンドロイドを分かつ定義は何か?記憶はどこまで信頼できるか?魂の居場所とは、などの激重たいテーマを、意思を持ったAIの顛末を追跡する筋書きの中でぼくたちに投げかけてくる。その意味では『ブレードランナー』との世界観と共通点が多い。

ーーーほそくーーー

全く本題からズレるけど、ブレードランナーのラストシーンでレプリカントのリーダー、ロイ・バティーが雨の中で語るセリフが好きだ。最後の、なんとも言えない笑顔もたまらない。このセリフがロイ役のルトガー・ハウアーのアドリブというのも驚きだ。

「おまえたち人間には信じられないようなものを私は見てきた。オリオン座の近くで燃える宇宙戦艦。タンホイザー・ゲートの近くで暗闇に瞬くCビーム、そんな思い出も時間と共にやがて消える。雨の中の涙のように。死ぬ時が来た。」 (原文:I’ve seen things you people wouldn’t believe. Attack ships on fire off the shoulder of Orion. I watched C-beams glitter in the dark near the Tannhäuser Gate. All those moments will be lost in time, like tears in rain. Time to die.)

ーーーおわりーーー

GHOST IN THE SHELL』を観終わったあとしばらく現実に戻れなくなった。押井守監督が創り出した、限りなく現実に近い世界観に「ダイブ」したからだと思う。

深海へダイブした気分のぼくは夢が覚めぬ心地のまま『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』を続けて鑑賞したのだった。

さきほど第2話 『暴走の証明』を観たのだが、気づけば頬に涙が伝っていた。数年前に観たときはこんなに感動しなかったように思う。

この回の主題は一体なんなのだろうか?なぜ琴線が揺さぶられたのだろう?

「いや、タイトルの通り『暴走の証明』でしょ」と言われればそれまでなのだが、暴走の証明と言われてもピンとこないのだ。

「生は他者との記憶により証明される」

というのがぼくなりの解釈なのだが、なぜそう思うのかを考えとして整理することにした。

『ブログタイトル:生の証明、暴走の証明』(あとでリンクを貼る)

"NO"からはじまる自由意思

・・・と、以上のように、ブームを過ぎた作品を「たった一人で熱中する」ことがぼくなりの対抗策だ。この営みは、誰の得にもならない。ただ、自分だけは幸せなのだ。だからこそ自分の意思で「生活を飾る」感覚を覚える。

アニメを観て考察すること、それ自体がぼくにとっての「Decor & Design」なのだ。

あるSF作家がこんなことを言っていた。

自由意志は、命令を拒否する"No"からはじまる

最大限自由に自分の人生をデザインして、生活を飾るためには、「たったひとりの熱中」が鍵になる。

本当の豊かさとは、他人から与えられたニーズを受け入れることではない。それは他人が想定した豊かさだ。

本当の豊かさとは、他者からの要請やレコメンドにキッパリ"No"の態度を取り、主流から離れることからはじまる。

そこを出発点にして、偶然を頼りに楽しみを探しにいったり、今となってはまったく誰からも相手にされていない作品に能動的に触れてみる。

自分の自由意思で選択したことに、何を感じるか、がなによりも大事なのだとぼくは思う。