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乱読千夜一夜

本と記憶を繋いだり結んだりするブログ

運転免許窓口の対応から見えた景色。独占がもたらす腐敗と、ビジネスが生む緊張感。

運転免許の更新期限がきょうだった。気づいたのが16時。手遅れである。

ぼくは地元の警察署に電話をすることにした。

免許更新が本日期限であることにさきほど気付いた。延長などの措置は取れないか。

できない。そもそもなぜ2ヶ月の間、放っておいたのか。行く機会を取れなかったのか。

公私ともに忙しく、行く時間が作れなかった。また、期限までに行けなかったことは自分の責任だが、その理由までを追求されたくはない。

有効期限は1時間後に切れてしまう。郵便の受付も間に合わないので、運転免許センターで失効手続きを済ませるように。

なるほど。了解した。

電話をきったあと、心のなかで”ある指”を突き立てたがモヤモヤは晴れなかった。突き放した対応だな、と感じたからだ。

前提として、期限切れに気づかなかったのはぼくの責任だ。事務手続きは昔から苦手だが、それは言い訳でしかない。

これでは反省文化に生きる人間として失格だ。こんな日はプナンの人たち(※過去記事参照)に慰めてもらいたくなる。

過ぎてしまったことを悔やんでも仕方ない。心の中でキレ散らかしても無意味だ。

そこで、なぜ自分がここまでイライラしているのか、その正体を明らかにすることにした。

塩田元規氏に聞いてみる

「ハートドリブン」の著者である塩田元規氏が、Newspicks主催の石川善樹氏との対談で、以下のように言っていた。

何で怒るのか、自分自身に聞いてみると、「あ、なるほど」となることがわかる。自分の怒りの感情に気づけると、怒りが消えていくのだ。

怒りを鎮めるためには、その正体を認識する必要がある、ということだと思う。

では自分がなぜイライラしたのか?

よくよく考えてみると、怒りの正体は恐怖心からきている気がする。そこらへんをもう少し掘り下げてみたい。 

ジョン・アクトンに聞いてみる

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ジョン・エメリク・エドワード・ダルバーグ=アクトン(英: John Emerich Edward Dalberg-Acton, 1st Baron Acton、1834年1月10日 - 1902年6月19日)はイギリスの歴史家・思想家・政治家。アクトン卿(Lord Acton)と呼ばれることが多い。

アクトン卿と親しまれた彼の格言にこんなものがある。

Power tends to corrupt, and absolute power corrupts absolutely.(「権力は腐敗の傾向がある。絶対的権力は絶対的に腐敗する」)

言葉の響きが素晴らしく、口に出して読んでみると詩をうたっている気分になる。

なぜ彼の顔が浮かんだのか?

電話の先にいる相手に、ある種の権力を感じたからだ。ただ単に「ムカつく」という感想だけでなくて、途方も無く分厚く、絶対的な「壁」を感じた。相手をするだけ時間の無駄なんだな、という感覚だ。

さて、アクトン卿の言葉にもどって「絶対的権力は絶対的に腐敗する」という言葉を噛み砕くために、パブリックセクターの特徴から考えてみるとわかりやすいかもしれない。

パブリックセクターとは地方公共団体特殊法人、公団等の公的な機関などを指すが、運転免許を発行する警察署もそれにあたる。

この領域は、基本的に競争のない独占市場である。わたしたちが持っている運転免許は警察署しか発行ができない。ゆえに価格競争も起こらないので、3800円ほどの手数料を定期的に払うことから避けられない。

そもそもは発行する側は競争がないので、基本は改善活動がいらない。いくら文句を言われようが、運転免許証の発行サービスは他のどこでも提供していないので、嫌なら好きにすればいいと突き放すことができる。Googleでいくら星1をつけられようが、罵倒を浴びさせられようが痛くも痒くもないのだ。

さて、これは果たして健全なのだろうか?

公的機関はそもそもそういうものだ、と言ってしまえばそれまでだが、明らかな腐敗だ。権力が、組織と人の関係性を腐らせている、と個人的には思う。

では、逆に何が健全な関係性なのか?

東浩紀に聞いてみる 

 東浩紀は、上記の自叙伝的な哲学書で以下のように述べている。

ゲンロンはあくまでもビジネスであることに拘りたい。それはお金を儲けたいあからではありません。そうではなくて、そもそも「観客」と「信者」のちがいというのが、商品と貨幣の交換が行われているかどうかによって決まるからなのです。 信者はお布施を渡すのであって、商品と交換するわけではありません。商品を買うかたちになったとしても、それは形式的なものです。 そこでの交換が成立しなけば、観客は離れてしまう。その現実感があるからこそ、ゲンロンはコンテンツのクオリティを大切にすることができる。

批評・哲学出身の作家が、ビジネスの対岸から会社を立ち上げ、座礁を繰り返し、約10年の歳月をかけてたどり着いた結論なので、とてつもない説得力がある。

ここからはぼくの解釈になる。

ぼくは、サービスを提供する側、サービスを買う側、どちらも平等、という価値観をもってる。だから、客側は「価値がない」と判断すればかんたんに離れることができる。自分の好きなものを自由に選べる、というはごく当たり前の原則だからだ。

そのかわり、提供する側が、価値ある商品・サービスを生み続ける限り、顧客はそれについていく。もっとよくなってほしいと思う人は、要望を出してくれたりする。耳を傾けられる提供者は、その声を「有り難い」と感じて改善に繋げるかもしれない。

つまり、両者がともに高め合うことができる。サービスや商品には、提供する側と買う側、双方の成長促進のプラットフォームとしての役割がある、と言えるのだ。

そのような「お互いに成長できるいとなみ」に参加することで、我々は「消費者」から「観客」に至る。逆に、理由もなくその商品を買うだけでは消費者に成り下がる。商品の価値がないとわかっていながら買うなら、それはただの「信者」≒「アンチ」への堕落だ。

貨幣の交換が成り立っている時点で、両者に緊張感が発生する。それが貨幣の強みだ。

「貨幣=緊張感」という方程式が成り立つとも言える。

独占市場に属するセクターの窓口とぼくの間に適切な緊張感がないのは、関係が対等でないから、ということに尽きる。不当な目にあったと感じるのは仕方ないことだ。腐敗構造からは適度な距離を置くのがよい。

その上で、自分がどこにいたいのか、を決めればいい。

まとめ

力を持つものは、その力を使いたくなる。それは自然法則なのかもしれない。権力の乱用は、本人の意思で退けることもできるけど、パブリックセクターの独占体質に染まってしまうのは仕方ないことだ。

環境がじぶんに与える影響は計り知れない。顧客に対する敬意やリスペクトが芽生えるかどうかは、本人の意思だけでどうにかなる問題ではない。もし、謙虚でありつづけることができたなら、それはその人が大変偉いということだ。人間個人はそんな強くない。

環境が個人にあたえる影響が大きいのであれば、なおさら「じぶんがどこに所属するのか」を心して選ぶ必要がある。周囲にいる人間をリスペクトできなかったり、扱ってる商品やサービスのことを「本当は価値がないよな・・・」と思い続けることは、小さな嘘を積み重ねる作業で、それを続けるうちに心が麻痺してくる。その繰しが尊厳を蝕んで、自信がなくなっていくのだ。とぼくは思う。

これは、多かれ少なかれ、誰しも経験のあることではないだろうか。

だからこそ、じぶん自身が、じぶんの価値観で、リスペクトできる組織に身をおく必要があるのではないか。

「価値が高い」と思える商品を検討して、作って、届けることができるかどうか、それに自分は拘りたい。

また、「いいビジネスだ」と信じられる分野に携わりながら、いずれはそれを創造する側に至りたいものだ。

いい顧客とは、東浩紀の言葉を借りれば「観客」として参加してくれる人だ。

ぼくも、観客とほどほど距離感にいながら、ほどよい「緊張感」を保ち、「お互いに成長できるいとなみ」に参加していたい。と願う。

この記事の冒頭は、「権威的な対応の苛立ち」からスタートしたが、「権力こわいねぇ」という話から、独占市場と開けた市場の比較、商品を売る側と買う側との関係論にまでいき、市場参加の戦略までコマを進めてきた。

見方を変えれば世界が変わる、と誰かが言っていたが、本当にそのとおりだ。

今後も、日々の違和感に敏感でいながら、知恵者のちからを拝借し、よい気づきを増やしていきたい。