自分のブログ名

乱読千夜一夜

本と記憶を繋いだり結んだりするブログ

「わかったつもり 読解力がつかない本当の原因」感想

今日のお題

「わかったつもり」という内心ギクっとしそうな本を読みました。

 

読破までは4時間ほどかかりました。

総評

超主観的評価

読みやすさ:★★★★★

読後感:★★★★☆

補足という名の蛇足

抽象的な説明と具体例を往復しながら文章が展開がされるので、理解が自然と深まっていきました。「わからない」ではなく「わかったつもり」が読解を妨げる要因になっており、これに立ち向かうことが真の課題である、と著者は言います。「わかったつもり」という手強い問題と対処法が深いレベルで腹落ちさせることができました。

このページ数でこの説得力は圧巻です。

すぐに実践に活かせるような考え方・テクニックを提示してくれているので、「わからなさ」に対するネクストアクションが取りやすいです。

ただし、モヤモヤしたところがあえて言うなら1点だけ。

本書の問題領域である「わかったつもり」に到達するためにも、言葉の関連づけや、単語の意味理解、文脈の引き出し力など一定程度求められます。つまり、本書でのアンチパターンにたどり着いた時点で少なくとも「ある程度読めている」と言えます。テキストや書籍によっては、それ以前に読むことを投げ出してしまうような「何がわからないかすらわからない」という諦観に至ることもあります。この行き詰まりに対するテーゼにも多少触れてもよかったかもと思いました。

ただし「圧倒的なわからなさ」は本書とは別テーマな気がするので欲張りすぎな気もしています。個人的に「ある程度文章内の単語を関連づけて読めること」すら怪しい場合があるので、モヤモヤが残っただけだと思います。

この本のメインテーマである「わかったつもり」という厄介な代物の正体、そしてその対策という示唆を得られた時点で、とてつもなく多くの学びがありました。

手に取った背景・問題意識

私ごとですが、仕事現場でテキストや口頭ベースでコミュニケーションをとっているとき、なんか自分の言いたいことが伝わってないな、相手の言いたいことがわからないなというシーンがあります。

そんなとき「コンテキストが揃ってない」とか「文脈がわからないので教えてほしい」とかをごく自然に言う機会が多いわけだけど、そもそもからして文脈って一体何だろう、文脈がないと理解不能状態になるのはなぜだろう、という疑問がふと芽生えたのがきっかけでした。

この疑問を解決するために、「コンテキスト」「文脈」「認識のずれ」「わかる」「わからない」というキーワードでamazonにて検索を開始。目についたのがこの本でした。

まずはテキストの読み方について理解を深めていければという気持ちで購入しました。

まとめると、どんな本だったと言えるか?

読解する力とは文字通り「読んでわかる」力のこと。逆に読解ができないとは「読んでもわからない」ということになります。本書では、この「わからない」という状態よりも「わかったつもり」という状態が「読み」を妨げる要因になると言っています。

「わかったつもり」というのはある種の安定状態で、「わかる」という状態から途方もなく距離が離れてしまっていると主張しています。

わかったつもりがなぜ安定状態なのか?

安定状態というとポジディブな印象を持たれるこもしれませんが、ここで言う「安定」とは「それ以上動かない」というネガティブな意味で使われます。

思考実験的になりますが、何か自分自身がわかりたいこと、興味を持った対象があったとして、それが「完全にわかる」ということはあり得るのでしょうか?

おそらく、深堀りをしようと思えばどこまでもできるので、理解度の完全性はある種の思い込みでしか成立しません。

例えばですが、ハンナアレントという哲学者について調べたとします(自分は哲学が好きなので、例に出しました)

そのとき、彼女の出版した書籍として『全体主義の起源』『人間の条件』『エルサレムアイヒマン』などを知ったとします。そして、各書籍の「要点」(正確には要点と思われる要素)を抜き出して自分の知識に定着したとします。

ハンナアレントユダヤ人でナチズムの被害者と言えるが、亡命により全体主義の局地であるホロコーストの犠牲者にならなかった。アメリカへ亡命後、1951年に『全体主義の起源』を出版する。彼女によれば全体主義とは野蛮への回帰などではなく一つの政治形態であり、国民国家の生成および崩壊の過程と同様の軌跡を描いている。。。

などと自分の理解を言語化して整理することは可能です。

さて、今の私の理解状態は完全でしょうか?当然、そんなことはありません。例えば、ハンナアレント全体主義の起源を執筆するに至った背景はなんでしょうか?彼女のルーツや成長過程とリンクしてる部分はあるのでしょうか?どういった思想家から、どのような影響を受けたのでしょうか?

といった具合に、あらゆる観点から疑問が生まれるのが自然です。疑問が生まれ、追及するプロセスが生成され続ける限り、常に知識が更新され続けるので、理解度の状態は不安定です。

不安定な状態であるからこそ、「わかろうとする力学」が働きます。

裏返せば、「わかった(つもり)」という状態である限り追及したり深堀りしたりするモチベーションが生まれ得ないので、その状態で安定します。

わかったつもりの正体は、自分自身が無意識的に「わかった」という安定状態にある錯視だと言えます。

 

まとめ

私の問題意識をざっくり言えば「わからなさはどこからくるの?どう対処すればいい?」でしたが、満足すぎる回答が得られたと言えます。

ただし「なるほどわかった!」と言った瞬間に著者から「わかったつもりの罠にハマってないか?」と問われている気分になるので、「ある程度は理解できたが、まだわからない部分があるので引き続き学ばなきゃいけないなあ」というぐらいがちょうどよさそうです。

ついつい私たちは脳の負荷をかけたくない衝動に駆られますが、「私は本当に理解したと言えるか?いや、言えない。なぜか?」という自問自答を繰り返すことが「理解した」という状態に近づくための唯一無二の方法なのかもしれません。

 

存在と時間ーハイデガーの作家性ー

前回の記事で書いた「理想的な関係性の問題」を飽きずに考えていました。

考えを前進させるために、コミュニケーション論や社会学の書籍を中心に読みながら色々とモヤモヤしていました。

  • 「関係」の前に、個人や他者が「ある」というはそもそもどういうことか
  • 本質的な”ありかた”とはなにか
  • 一般的な大衆と私に区別はあるんだろうか
  • その区別があるとしたら境界線はどこにあるのだろうか

人間関係というテーマにいく手前に「個人」とか「存在」というテーマが立ちはだかっている感があって、実存主義的な考えに触れようという気分になったのだ。

そこで手にとって”しまった”のがこちらです。

 

実際に読んでみて

すみません、まったく歯が立たちませんでした。

そもそも文章の構成として主語、述語、動詞がどうやって繋がってるのかを読み取るのに骨が折れる。

マルティン・ハイデガーの『存在と時間』といえば難解本で有名だが、難解たらしめている最大の要因はハイデガーの独自用語がふんだんに使われているからだろう(冗談抜きで造語が連発されている)

「現存在」「世界内存在」「歴史性」「ひと」「時間性」「投企」「被投性」...などのピンとこない言葉で展開していくので、まぁ初見殺しなのである。各種の造語は「ハイデガー語」とも言われるみたい。

でも、ベストセラーなのである。なぜか?

めちゃくちゃ難しい本なんだけど、不思議なもんで、読まされる。

グッと引き込まれてしまう魅力に溢れている。俗っぽい言い方をすると、ものすごくカッコいい。ヤバい中毒性がある。

原文を読んだことがないのでハイデガー自身の文学的なセンス故とは断言できないが、読み進めていくと、得体のしれない”何かすごいもの”の手触りを感じるのだ。

さて、この厄介本をどうやって糧にするか、だ。

仲正昌樹先生の力を借りる

『現代哲学の最前線』の著者である仲正昌樹先生がハイデガー初心者向けの本を出しているというので、早速購入。読んでみました。 

 結果、超大正解。『存在と時間』を読むための予備知識・考え方が、体にスーッと染み渡りました。本当に感謝です。

完全に余談ですが、文体の随所に現れる著者の反骨的な姿勢が大好きです。

さて、導入書を踏まえて「存在と時間」はどんな本だったのか。

率直な感想

まず、自分は哲学についてズブの素人です。

自分の理解・解釈を述べますが、何か間違いなどがあれば指摘をしてもらえる大変嬉しいです。理解をより深めたいなと思うので。

これは有名な話だし『ハイデガー哲学入門』の冒頭でも触れられているが、マルティン・ハイデガーの代表作である『存在と時間』は未完の書である。

存在と時間との関係をまさに論じようかと腰を上げたところで、突然幕が閉じられてしまう。

ちなみに、最後の数行はこれである。雰囲気だけでも。

現存在の全体性が有する実存論的ー存在論的体制は、時間性にもとづいている。それゆえ脱自的な時間性のものにぞくする。或る根源的な時間化の様式が、存在一般の脱自的な投企を可能にするものであるはずである。時間制がこのばあい時間化する様態は、どのように解釈されるべきなのか。根源的な時間から、存在の意味へとつうじるひとつのみちすじがあるのだろうか。時間そのものが、存在の地平としてあらわになるのであろうか。

おわかり頂けただろうか。ここでは大事な結論が述べられておらず、最後は問題提起のような形で終わっている。

この結末に対して、いや最後までやれよ、という意見も少なくないみたいだ。

ただ、自分個人としては、充分過ぎるほどの示唆をもらえた感覚がある。

なぜかというと、ハイデガーの主張が俺の問題意識のアンサーになったから。

(再掲)

Q1「関係」の前に、個人や他者が「ある」というはそもそもどういうことなんだろうか

Q2本質的な”ありかた”とはなにか

Q3一般的な大衆と私に区別はあるんだろうか

Q4その区別があるとしたら境界線はどこにあるのだろうか

それぞれに対して、ハイデガーの考えを引用しながら、自分なりの解釈をしていこうと思う。

Q1「関係」の前に、個人や他者が「ある」というはそもそもどういうことなんだろうか

人間にかかわらず、◯◯がある、〜である、△△が存在する、という場合の「在る」とか「存在する」というのは何なのか?

まず、「存在」の捉え方によって異なる。大きく2つに分けると、どのように「存在」しているのか、「存在」とはそもそも何か、ということだ。前者については、存在の条件を規定すればいいので、これは哲学の領域ではない。場所や、時間、環境から規定すれば、それが解答になる。

後者についてが厄介で、存在という言葉を使わずに存在を規定しなくてはならない。なので、新しい概念を持ち出す必要がある。

ハイデガーは「現存在」と「世界内存在」という概念を導入した。

なぜこんなややこしい、馴染みのない言葉を定義したのか。それは、「我思うゆえに我あり」というデカルト以降の存在論を解体するためだった。これは本筋からズレるので詳細は省きます。

話を戻すと、ハイデガー曰く、我々は「世界に投げ込まれた存在」ということらしい。

世界という、どうしようもなくそこにある、広い意味での環境に、ポンと、特に因果もなく放り込まれたのが我々なのだと言う。これを「世界内存在」と呼ぶ。世界には、動物や道具や自然などの存在もあるが、それと区別して、存在自身のことを問える存在を「現存在」と呼ぶ。

なんだか突拍子もない思いつきに聞こえるかもしれない。ただ、この世界観の優れたところは、そもそも我々が存在するのは、わたしたちが観測不可能な力によるもので、投げ込まれた=生まれ落ちた意味など最初から“ない”ということにある。要は、我々の生スタート地点は“無”なのだ。

かつ、「現存在」としての我々は、自らどう生きるかを「意志する」ことができる。ここに希望と絶望がある。

Q2本質的な”ありかた”とはなにか

「現存在」の希望と絶望の両面をそれぞれ直視することから、本質的=本来的な“ありかた”を検討していきたい。

まずは絶望の面についてだが、ハイデガーの言葉を借りれば「ひと」と「頽落」という概念で説明できる。

「現存在」は「世界内存在」として、世界に投げ込まれ、重力に似た性質を帯びる。それが「頽落」だ。生起した時点では無=なんでもありな存在なわけだが、大衆という巨大な重力場がどうしようもなく横たわっている。大衆のことを「ひと」と呼ぶ。個別性が剥がされ、平行化・水平化された集団、場として「ひと」に次第に「現存在」は飲まれていく。意志なき自己と呼んでも差し支えない存在へと下降していく。この抗い難い性質に絶望がある。人によってはアイロニックに、シニカルに生きる理由になるかもしれない。

ただ、それを裏返せば「ひと」からの離脱=個別化にこそ、本来的な在り方、生き方が開示されている。

Q3一般的な大衆と私に区別はあるんだろうか

「投企」が希望の部分である。「頽落」という性質に支配された我々が脱「ひと」化するためにはどうすればよいか?

「投企」による「決意性」と「時間性」の獲得が鍵を握っている。

「投企」とは、「頽落」によって失われた自己像を取り戻すための行為、と捉えていいと思う。

自分なりに言い換えると、ある種の、こうなりたい、こんなふうにありたいというイメージを遥か前方に放り投げ、よしあそこへ向かうぞと決意し、確実に歩みを進めていくことだ。「投企」によって「ひと」から「脱自化」することで、本来的な生き方が、決意によって可能になる。

その結果、自分の周りにあるものや出来事が、なんの脈絡のない、自分と無関係な、事件的なものではなく、自分にとっての重要な物語の一部へと変化する。

その力場を生み出す源泉のようなものを「命運」とハイデガーは呼ぶ。

Q4本来的、非本来的の区別があるとしたら境界線はどこにあるのだろうか

「投企」をある角度から見てみると、自分の可能性の規定と言える。あれ、これと悩むが、結局のところ、とある将来イメージを決めなくてはならない。

将来のイメージは可変的であるが、唯一確実で、必然的に訪れる可能性がある。ずばり「死」という不可避の状態である。

到達が唯一約束されている「死」に向かう我々を「死への先駆」と呼ぶ。飛躍して言えば、生とは死を内包しているのだ。この厳然たる事実を直視、自覚して生きることを、本来的な「現存在」の姿だ。

死を意識し「投企」しているという「心理的事実」が、本来的か否かの根拠になるという。これがハイデガー流の線引きである。

中間整理

無から始まり、死へと向かう存在だからこそ、自らの決意によって開ける生がある。だとすれば、何も悲観する必要はないと言える。ゼロからのスタートなのだから、自分だけの形を想定し、そこに全精力を注げばいいのだ。

そんなQAを自分の頭の中で繰り返していると、ある人物のことが浮かんだ。

『大衆の反逆』との接点

f:id:DYD:20210625171155j:plain

『大衆の反逆』の著者、オルテガなんですけど、めっちゃかっこよくないですかこの人?

オルテガハイデガーに影響を受けているかどうかを調べたわけではない。

なので正確なことは言えないが、大衆の反逆で言及している、「大衆」と「少数者」の二項関係ハイデガーの価値観と近似している。

大衆の反逆は、どちらかといえば大衆化する社会に警鐘を鳴らし、貴族的な生き方を奨励する啓蒙的な本だと感じる。

それに対してハイデガーがやろうとしていたのは脱構築的な、ある種の解体作業だった。

書籍の趣旨はそれぞれ全く異なる。

ただ、オルテガの「大衆」はハイデガーが言うところの「ひと」であって、「少数者」とは「脱自的」で「投企」された個人とも読み取れる。

更に、最も接近している観点は、二人の歴史観だ。

オルテガは、一般大衆が「われこそが時代頂点」という奢りをもち、「偉人はレガシーだ」という不遜な態度を問題視していた(要は、お前ら調子に乗るなよ。というメッセージ。)

ハイデガーは、自らが自分の意思で「投企」することで、「現存在」が「時間性」を獲得し、本来的な実存=生き方に繋がると説いた。

集団から離脱し、本来的な生き方ができる人は、実際にはごく一握りだ。これはオルテガの「少数者」と同じ位置にいると言える(オルテガは、精神貴族的な意味合いをもたせているようにも思うけど)

さらに、ハイデガーは、本来的な「現存在」は「歴史性」に、ある程度拘束されているという。

拘束という言葉を使っていないが、イメージとして、大衆から受け取った遺産や財産(物質・非物質すべてを含む)から完全に独立することはできない、ということを言っている。

簡単に言えば、自分なりの生きがいや生きる意義を発見したとする。それが作家でも、役者でも、研究者でもなんでもいい。何か自分が掲げる理想像に向かうとき、それは完全なオリジナルなのだろうか?

残念ながらNoだ。完全な自主性というのはロマンティークな幻想だ、とジラールも言っている。

完全に自分個人だけの意志で、ある考えだったり、行動ができるわけではなく、過去から連綿と引き継がれた技術や思考、意志などを引き受けている、とハイデガーは言う。

この公共的な”バトン”のようなものを「歴運」とハイデガーは定義して使っている。

「歴運」を引き受ける、というのは、見方によっては偉人に敬意を示し、その功績を参照しつつ謙虚に生きるというメッセージ性を読み取ることができる。

これはオルテガの考えにかなり通ずるところがあるのではないだろうか。

超単純化すれば、自分なりに、自分の理想や理念を追いかけて、実際にやってみるのが本来的な人間の在り方なんだけど、「脱社会的な存在」になっちゃダメだよ。みたいなことを、ある側面でふたりとも言っているんじゃなかろうか。

その一致性を感じたとき、国境を跨いだ二人の知の巨人が、とても身近に感じられた。

まとめ

ハイデガーの『存在と時間』を、仲正昌樹先生の『ハイデガー哲学入門』の力を十二分にお借りしながら、読み進めていった。

結果として、自分の問題意識にクリティカルヒットするところが多く、大変重要な示唆をもらったように思う。

また、オルテガとの意外な接点も発見することができ、自分の思考がよりアップデートされたのは間違いないだろう。

これは個人的な感想でしかないが、ハイデガーは作家性のある人物なのではないかと感じた。それも、とてもヒューマニズムな。

存在と時間』を読んでいると、独自用語がとにかく多い。これは、既存の哲学を支配している「意識ー無意識」という規定をぶっ壊すため役割、という見方もよくわかる。

それとは別の観点で、ハイデガーのスタイルからは創作をつくるための「設定っぽさ」を感じるのだ。ひとつのSF小説やゲームをつくるための舞台装置や世界観を丁寧に説明されているような思いになるのだ。

さぁ世界はつくっておいたから、お前ら好きにに遊ぶといい、というハイデガーからのメッセージを感じる。

彼の言う「世界内存在」として「被投性」をもつ「現存在」というのは、まさにSF的だし、「非脱自的」というのはたぶん覚醒するっていうことだ。

世界というフィクションの中で、自分が(自分に)目覚めるというは、なにかロマンがある。

「命運」を意識した個人には、身の回りのあらゆるものが意味づけされる、というのも、生きる希望に繋がる。

一方で「歴史性」や「歴運」などといった、過去への敬意や、「ひと」との連帯、連続体としての個人、という土着なコミュニティ意識も感じられる。

右にも左にも極端に傾倒しない、ある種保守的なメッセージだとも言える。それに書いていることは激ムズときた。

しかし、読後の感想としてはどうだろう。

なんだか優しさというか、温かみに包まれる。

ハイデガーとは本当に人間的な人物だったんだなと思う。

気づけば俺もハイデガーのファンになっていた。

いかにして集団生活における心理的安全性を保つか

これまでの投稿と打って変わって、まるでテイストが違ってしまうが、最終更新日の1月末から現在まで、徹底して一つのテーマについて考えてきた。

いかにして集団生活における心理的安全性を保つか

これが僕にとって一番大きな問題意識で、これからもこだわって考えていきたいと思っていること。

以下に、現時点での俺の考えを綴る。

その上で、読んでくれた人には何かヒントになりそうな芸術作品や書籍、 個人的な考え方のヒントなどあれば教えてほしいです。映画でも漫画でも、哲学書でも、文学書でも。

そもそもなぜ集団と心理的安全性がテーマなのか

そもそもなぜこんなテーマなのか。

実を言うと、つい最近友人と喧嘩別れをしてしまったり、 会社との関係性を壊してしまったり、そもそも集団生活に居心地の悪さを感じることが多かったことが直接的な要因。

自分のインターフェースが陽気な感じなので、外交的な性格に捉えられがちだが、他者との関係の結び方が不得意で、かつ集団に属するとアレルギー反応が出てしまう症状がある。

この処方箋として「諦める」以外の工夫でどうにかしたい、ずっと考えていた。

加えて、今後も夫婦生活を円満にしたいという気持ちと、次こそ集団生活は楽しみたいという 目先の幸福追求の気持ちも切実にある。

(集団生活にそもそも向いていないのでは?という懸念はある(笑)が、集団の性質と規模を見極めることだったり、自分の心構えや処世術で解決したいという強い意思があるのだ)

どんな方向性で考えるか

そもそも君・・・問題は自分にあって、自分が変わらないことには相手は変わらんよ、という意見には中指を立てるとして(ボトムアップ的にいままでの事実を並べて反省するのも個別でやるが)

それとは別に、考え方や心構えというか、あり方を見つめ直したいと思っている。

そのためのヒントがほしい。

現時点の自分を改造せず、拡張したい、というのが正しいかもしれない。

ここからが俺の思考プロセスだ。

現時点の土台となる考え方

そもそも心理的な安全性とは何かをざっと考えてみると、

  • 相互承認、相互理解が担保された関係性
  • 自分の行動や言動が無条件に許される、という自分の中での思いが芽生えている状態
  • 相手がリスクを許容してくれるだろう、という安心感があること

いろんな条件がありそうだが、 シンプルに考えると、集団生活には極論「自分」と「相手」しかいないわけで、 自分と相手の相互関係を健康的に作り上げていくためにどんな考え方をもつべきか? が要点になるのではないか。至極当たり前なんだけどね。

そう考えると、大雑把に言えば

「自己決定の権限範囲(自分→相手)」

「他者からの干渉の許容範囲(相手→自分)」

あたりを仮の論点にしたい。 (ここは他の視点があるかもしれない)

要は、自分が自分勝手に、自分で判断できる範囲がどこまでなのか?相手からの強要、依頼、懇願をどこまで受け入れるのがいいのか? (このあたりは、ミードの自我論、I、Meの考え方に影響を受けている)

この思いの裏側には、以下のような俺の願いがある。

  • 他人に過度に干渉されたくない、なるべく自分で意思決定がしたい。
  • ただ、他者と関係性をもつことが自分にとって必要。
  • 相手の尊厳も保ちたい。敬意を払いたい。
  • ↑は言い換えれば、傷つきたくもないし、傷つけたくもないということ。ただ、無関心になりたいわけでもないし、逆に規範の植え付けもしたくない。 強要の先には全体主義が待ち受けているし、それはディストピアを容認することになるから。
  • 社会参加をすることなしに、生きている実感はわかない。
  • 「仕事だから」「ルールだから」「理念だから」という大義名分で他者を動員したくないし、されたくない。

まとめると、 心理的な平穏を保ちながら、相手の尊厳を侵害せずに集団に属したい。

そのためにどういった考えや、やり方を持つことで、集団生活での自分の幸福を追求できるのか? を考えて、実践していきたい。

巨人の肩に乗るー危害防止原理ー

現時点でのJSミルの「自由論」にかかれている一節が、俺が見つけた妥協解で、これを起点に考えを進められればいいなと思っている。

「人類が、個人的にまたは集団的に、誰かの行動の自由に正当に干渉しうる唯一の目的は、自己防衛だということである。すなわち、文明社会の成員に対し、彼の意思に反して、正当に権力を行使しうる唯一の目的は、他者にたいする危害の防止である。」JSミル

要は、あなたのためを思ってるのという理由でまわりの人が強制的になにかさせたり、逆に静止すること(パターナリズム)は、だめ。強制はだめだが、説得したり懇願したりするのはOK。

人は、自分で何かを決めることができるのであって、誰かから何かを干渉されないことが幸福を追求することに繋がる。

これは妙にしっくりくる定説で、いまの自分の考えにマッチしている。

ミルの自由論のあいまいさ

ただ、ここで新たな問題意識が浮かぶ

危害とはなにか?どこからどこまでを指すのか?寛容さを信じるのであれば、どこまでも許せてしまうのではないか?

  • 例えば、観葉植物をデスクに置くのは隣人にとって危害なのか?など、危害という言葉が曖昧で、逆に他者との関係性の結び方を難しくしている気がする。
  • 規範の内面化が進んだ社会では、あらゆることが危害としてみなされてしまうのではないか?
  • 危害がある、ないをどこまで自分が断定できることができるのか?
  • 危害がある、という判断は他者がする。かつ、他者の道徳や規範意識はそれぞれ異なる。 その前提で、いかに危害を断定することができるのか?
  • 法と道徳の話に解決策を求めるべきか?
  • 道徳を一般化することは全体主義に繋がることではないのか?
  • 自己決定が難しいと断定できる対象は誰か?たとえ「大人」であっても、理性が失われた状態なんてのはザラにある。
  • ハーバマスが言っている、「理性的なコミュニケーションによる合意形成」は一定効果がありそうだが、例えばカフェで隣り合った人や、すれ違う人に対していちいち合意形成をとることは現実的じゃない。また、理性的な人がすべてではない。利害関係が異なったり、虫の居所が悪いとき、感情的になることはある。
  • そもそもパターナリズムがだめなのはなぜ?

みたいなことが個人的な残尿感として残る

以上、ツラツラと述べてきたがそんなことが問題意識ですが、伝わりますでしょうか?

何か、ヒントにアイディアを与えてくれる芸術や文学、個人的なアイディアがあれば教えてほしいです。

新宿 純喫茶西武より 愛を込めて

自分が「いる(Being)」仕事をすることで「生き生き」した感じが他の人にも伝播していく。ぼくたちの心をシラけさせないために必要なこと―――『自分をいかして生きる』

 

自分をいかして生きる (ちくま文庫)

自分をいかして生きる (ちくま文庫)

  • 作者:西村 佳哲
  • 発売日: 2011/06/10
  • メディア: 文庫
 

 

いい仕事って一体なんだろう。

 

ある会社役員とのオンラインミーティグの帰り道、代々木八幡商店街を歩きながら、そんなことをぼんやりと考えていた。

まぁラーメンでも食べて忘れようと渋谷方面へ歩いていたら、道すがら、ひかえめにいって最高な書店を見つけてしまい、吸い寄せられるように店内へ(あんまりにも最高だったので宣伝も兼ねて↓)

www.shibuyabooks.co.jp

そこで出会ったのが、冒頭の本。

著者は建築設計の仕事をしている人なんだけど、「働き方研究家」という肩書きでも活動している。文章が手紙のようで読みやすく、自分の考えと照らし合わせて読むことができた。

仕事ってなんだろう。

これはぼくたちの人生のテーマでもあるので、すぐに答えが出ることでもないけど、せっかく出会ったこの本と一緒に、今日もゆっくりと考えていきたいと思います。

『自分をいかして生きる』を軸に仕事を考えてみる

著者の西村佳哲は「存在という贈り物」という節でアキッレ・カスティリオーニが残した以下の言葉を引用している。

いいプロジェクトというのは、自分の存在を後世に残そうとする野心から生まれるものではありません。あなた達がデザインしたものを使うことになる誰も知らない見ず知らずの小さな人々と、ある交換をしようと思う。その気持ちからいいプロジェクトは生まれるのです。

カスティリオーニが用いた「交換」が今回のキーワード。

最初に読んだ時、すごく引っかかった。ある交換っていったいどういう意味なんだろうか。

確かに、ぼくたちは誰かの仕事の成果を手に入れるために、それに応じた対価を支払う。時間だったり、貨幣だったり、個人情報だったり。ただ、そういった俗物的なものではなくて、何か大切なメッセージが隠れている気がしてならなかった。

カスティリオーニ氏の仕事そのものにヒントがあるのかもしれない。

カスティリオーニの仕事

作中でも引用されている『ロンピトラッタ』を皆さんご存知だろうか?

名前を聞いてもピンとこないと思うので、参考画像を下へ。

f:id:DYD:20210127101656j:plain

ロンピトラッタ(1968)アキッレ・カスティリオーニ作

おそらく電気が灯く家庭で育った人であれば、誰もが知っているこのデザイン。このスイッチを発明したのがカスティリオーニその人である。

長いことお目にかかっていなかったが、生活の中に溶け込んでいるデザインだ。当たり前過ぎて、特別な感情を抱く隙もなかった。

その存在をよくよく確認してみると、温かみがあって、洗練されていて、使いやすくて、大変有り難いなと感じる。シンプルに「いいね!」と思う。

なるほど。存在が「有り難い」と感じたり、無条件に「いいね!」感じるのが「いい仕事」なのかもしれない。

カスティリオーニの仕事は、ある意味わかりやすい。ぼくたちが実際に手にとって、触れて、実生活で使っている商品だから。

ただ、そういったデザイン、意匠、製造に関わっている人がすべてではない。サービス業といった無形資産を扱っているひとが、今の時代は多いのかもしれない。

そういったすべての仕事に展開できるような「いい仕事」の輪郭をハッキリさせるために、もう少し抽象的に考えてみたい。

仕事を端的に表現する「離島モデル」

結論から述べてしまうけど、たぶん、その商品やサービスを媒介にして、手に取った人たちと「何を交換したのか」によって、それが「いい仕事」か、「テキトーな仕事か」が決まる。

著者が、美大の講義で「仕事とはなにか」を生徒と認識を揃えるために用いた図を、まずは見てもらいたい。

f:id:DYD:20210129215538j:plain

海に浮かぶ島は、こんなふうに見える。

店先に並ぶ商品。封切られた映画。新しくできたお店。それらは、この島のようなものだと考えてみたい。

海に浮かぶ島を「仕事」に見立てている。著者は次のようにつなげる。

目に見える部分だけで満足できるか、できないか。それはその仕事について自分がただのお客さんに過ぎないのか、それだけでは済まない何者なのか?という話につながるのだけど、とりあえず山に焦点をあてて話を進める。

水面の下の山は、こんな階層構造を持っていると思う。

f:id:DYD:20210129221331j:plain

この図を見て、なるほどと膝を打った。目に見える仕事は、まさに目に見えている部分であって、その裏側には、確かな技術や知識、その人の考え方や価値観が隠れている。

そして何よりたいせつなのは、作り手の「あり方・存在」が根源にある、ということだ。

著者も作中で言っていることだけど、チームワークをしているときに感じる虚しさは、「不在」によるものが大きいのではないか。

一緒に仕事をしている人が、どこか上の空だったり、テキトーな生返事だったりするときにぼくはとてもがっかりしてしまう。なんだかシラけてしまう。

「その人」が感じられない時、エネルギーの行き場を見失ってしまい、とても淋しい気持ちになる。

逆に、いい仕事をしている人は、なんだか「その人」がそのまま感じられる。それを「意思」とか「息吹」とか「生命」とか「魂」なんて言葉で表現されるのかもしれないけど。

機械的ではない、「真心」や「手心」を感じる、そんな仕事に触れた時、どんな気持ちになるだろう。

ちょっと考えてみる。たぶん、それは大きな差なんだと思う。

それはたぶん、ただ「利用する」といった消費行動ではなく、「敬意」や「感謝」といった心を差し出しているのではないだろうか。

よく、会社の同僚や先輩が「俺のことを使っていいよ」と言うが、どうにも後味が悪い。

では、ぼくたちが敬意や感謝を差し出したくなるような「いい仕事」には、なにか共通点はあるのだろうか?

いい仕事には「いる」感じがする

小さな人々であるぼくたちが、あるデザインやコンセプト、あるいは商品を受け取る。そのとき、ただの「消費」として金銭や時間を支払い、その対価として「便利さ」を受け取る場合、ある種の「つまらない」お買い物をしていると言える。表層的な交換だ。

一方で、心からの「いいね!」や共感、尊敬の気持ちを差し出すとき、ぼくたちは「いい仕事」から何をもらっているいるのか。どんな交換が発生しているのか。

著者の答えはこうだ。

結果として生まれるものがトマトであれ一脚の椅子であれ、本であれ、サービスであれ、それが「それ」になることを可能にしたひとつながりの働き全てを、わたしたちは<仕事>として受け取っている。

なるほど。と思った。

例えば、ぼくはSFアニメを観るのが好きだけど、作品を観る以外にも、監督のインタビュー記事やディスコグラフィーを見るのが楽しい。

アニメに限らず、作品にはその人の意思が宿っている。

意思というと漠然としてしまうが、その人の考え方・価値観、存在そのものが作品には投影されている。持って生まれた性質、生きてきた過程で獲得した知識や感覚、そういったあらゆるすべてが総動員されたものが作品なのだから、作品そのものが、その人の人生そのものであると言っても過言ではない。

前回の記事で押井守監督の『攻殻機動隊』が好きだと言ったけど、観ているだけでエネルギーが漲ってくる感じがする。

鑑賞後のアウトプットが「なんかすごい。かっこいい。」みたいな、ボキャ貧な感想になってしまうんだけど、なんだか鑑賞前の自分よりも、今の自分の方が生き生きした感じがする。

そのとき、『ぼく』は『作品』から「作り手の存在そのもの」を受け取っている。

生き生きした感じになるのは、その作品そのものが生き生きしていて、その影響をぼくが受けているから。

いい仕事には「いる」感じがして、それがぼくたちに伝わっていく。そこには作り手の存在がいる。

さて、いままでは、受け取る側の視点で検討を進めてきた。

でも、いい仕事ってなんだろう、という自問自答は、自分自身がいい仕事をしたい。そんな願いが背景にある。主体者でいたい、というのは誰しも思うんじゃないだろうか。

いい仕事は、その人のあり方や生き方、考え方や価値観から発せられる。では、具体的にどういった振る舞いが「いい仕事」の源泉になるんだろう?

人間性仕事は「自分」を分離することで生まれる

少し回りくどいアプローチだけど、「いい仕事」の対極、「よくない仕事」はどのように生まれるのかを考えてみたい。

資本主義社会という言葉で大雑把に自分の社会をくくりたくないけど、損得感情だけで動いているな、という人を見かけることがある。

「それってどんなメリットがあるんですか?」「自分になんの得があるっていうんです?」という言葉をよく聞くのは自分だけだろうか。

これは個人的な感想だけど、ロスアンドゲインから生まれる仕事は卑しい感じがして、進んで手に取りたくないなと思う。

損得勘定で生きた人の貧しさを『クリスマス・キャロル*1に感じるように、損得勘定で生まれた仕事は消費される運命なのだと思う。

仕事の豊かさの喪失をマルクスは『資本論』で述べている。 一部抜粋する。

資本主義システム内では、労働の社会的生産力を高める方法はどれも、個々の労働者を犠牲として行われるのであり、生産を発展させる一切の手段は、生産者たちの支配と搾取の手段に転化し、労働者を部分人間へと不具化させ、労働者を機械の付属物へと貶め、労働苦で労働内容を破壊する。そして科学が自律的力能として労働過程に合体されるほど、労働過程の精神的能力をド労働者に疎遠なものにする。

平たく言うと、職人の技をマニュアル化することで、労働の内容そのものが人から奪われ、人が機械化するということ。

この現象をマルクスは「疎外」というふうに言っているけど、言い換えれば、「仕事」から「自分」が分離されてしまい、単なる資本家の犠牲者になってしまうということだ。

このような状態で「いい仕事」などはできないだろう。部品として振る舞うことしかできないのだから。

ただこれは、あくまでも構造における傾向の話なので、その存在を一定認めた上で、そこから距離をおけばよい。絶望しても仕方ないから。

損得勘定を抜きにした振る舞い=「内なる光」がいい仕事の源泉

マルクス資本論から「いい仕事」をすることが構造的に難しくなっていることを述べた。

今度は別の視点から覗いてみる。

logmi.jp

宮台真司は上記の対談でが以下のようなことを言っていた。

みなさん、あまりご存知じゃないかもしれないけど、プラグマティストは「実用主義」という訳語は完璧に間違いで、正しい理解は「認識よりもコミットメント」ということです。 真理を理解しても体が動くとは限らないじゃない? だから、体が動くには心が動くもので、人は無謀だから「やめろ」と止めたとしても、「俺があいつを助けに行くぞ」というふうに、心が動く。これをプラグマティストは「内なる光」と言うんですね。エマソンの言葉です。

宮台真司の言う「内なる光」と同じようなことを著者も触れている。

以前、舞踏家の大野一雄がこんなことを言っていた

ーー咲いている花を見て、ああきれいだな・・・といつの間にかそばに近寄って、花にむけて手がのびる。この手はいったいなんだろう。ーー

花を摘むことではなく、その行為の直前の、思わず生まれてくる動きについて彼は語ろうとしている。

どちらも、損得勘定ではなく、「人間そういうもんなんだよ」としか言えない、情動の働きを言っているのだと思う。

自分がそれをしなくてはならない。他の誰かがやるのではなく、どうしても自分が、なんとなく自然とやってしまっていること。他人事で終わらせたくないこと。社会に差し出さざるをえないこと。

ある日、公共性の高い仕事を毎日夜遅くまで楽しそうにやっている友人に、仕事選びの相談をしたことがある。

そのとき、彼は「土日にやっても苦痛じゃないことを仕事にすればいいんじゃないか」と言ってくれた。

本質として、上の3つは同じことを捉えている気がする。

何もバイアスもかかっていない、ニュートラルな状態で、自分が自然とやってしまっていること。それを仕事にすればいい、と。

駅のホームで行き倒れている人に、思わず「大丈夫?」と声をかけてしまうような、そんな情動が仕事をつくる源泉になるんじゃないだろうか。

ぼくの場合、きっと「言語化」と「人との関わり」なのだと思う。

 

みなさんは、どうだろうか。何を仕事にしているのかと問われた時、どんな返答をしますか?

まとめ

仕事とはなんだ。これは永遠のテーマだと思う。

ただ、いい仕事だなぁ、と直感的に心が反応する瞬間に出会うことがある。そのとき、ぼくたちは敬意や尊敬の念を差し出す。

「ブランドとは意味である」と、あるマーケターが言っていた。*2

ブランドっていうとチープな響きを帯びてしまうけど、いい仕事に触れたとき、ぼくたちはその背後にある作り手の「あり方」や「存在」を受け取っている。有難いなぁと思ったりする。

それはまさに「意味」と「感謝」の交換だ。意味を「存在」、感謝を「心」と置き換えてもいい。

そんな交換をしながら、ぼくたちは生き生きした感じを受け取る。

そして願わくば、受け取ったことを、自分の仕事の成果に繋げて、「生き生きした感じ」を伝播させていければなと思う。

 

*1:ディケンズ原作。ディズニー映画だが、テーマは大変重たい。損得勘定だけで生きた人間の末路が描かれている。実は『未来世紀ブラジル』の冒頭にも引用されていたりする。

*2:マーケティングプロフェッショナルの視点』音部大輔。

たった一人の熱中。自分なりの生活の飾り方

昨年の大晦日に友人から紹介された書籍を読んでみたら目から鱗がポロポロとこぼれ落ちた。

暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)

暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)

 

そもそも、ぼくたちはなぜ退屈するのか。どうやって暇を使えばいいんだ、みたいなことを話していたときに、実はこんな本があってね、と紹介されたのがきっかけだ。ぼくは紅白歌合戦を観ながらAmazonの注文ボタンをクリックした。

Decor & Design

ウィリアム・モリスというイギリス人をご存知だろうか?『暇と退屈の倫理学』の序盤で引用されている人物だ。この人の言葉があまりにも美しかったので、来歴をかんたんに紹介したい。

彼は産業革命の只中でマルクス主義にポジションを置いて活動していた思想家であり、デザイナーでもある。政治思想・政治活動の内容はさておき「モダンデザインの父」と呼ばれた彼の民藝文化に対する貢献と影響は計り知れない。

当時のイギリスは産業革命の成果によって、商品がプロレタリアート(労働階級)の手で大量生産され、それが消費されるようになった。

ここで重要なのは、繁栄の裏側で、職人の美しい手仕事が風化されていった点である。

この状況に危機感を覚えたモリスは、プロレタリアートに手芸文化を解放し、生活に芸術を取り戻すべく『アーツアンドクラフツ運動』を起こし、結果としてモダンデザインの潮流をつくった。

彼が一般的な社会主義者と違っていたのは、産業革命のあと、豊かな生活を取り入れたあと、日々の労働以外の何に向かっているのか?という問題意識があったことだ。活動家の立場にいながら、未来を憂いているのは稀有な例に思う。その問いに対して、彼はこう答えている。

革命が到来すれば、私たちは自由と暇を得る。そのときに大切なのは、その生活をどうやって飾るかだ。

なんて美しいんだ、と心を打たれた。救われる気分だった。

でも、なぜこの言葉が刺さったのだろう?

"好き"の証明。例えば『鬼滅の刃

鬼滅の刃を例に出すのは説明が手っ取り早いからであって、ぼく自身はアンチ鬼滅ではないことを念の為断っておく。アニメ版も漫画も割と好きな部類だ。ufotable版19話は『僕アカ』40話と並んで、アニメ史に残る神回だと思っている。

ただ、映画版の興行収入を巡る全体主義的な動きや、街を歩けば鬼滅グッズを見ない日はない昨今の状況には気持ち悪さを覚える。

疑問なのは、世の中の人はほんとうに鬼滅の刃が好きなのだろうか?だ。

國分功一郎は『暇と退屈の倫理学』の中で、こんなことを言っている

人間に期待された主体性は、人間によってではなく、産業によってあらかじめ準備されるようになった。産業は主体が何をどう受け止めるかを先取りし、あらかじめ受け止められ方の決められたものを主体に差し出している。

これは何を言ってるかでいうと、例えば自分の好きな漫画を友達に紹介するときに、ベストセラーを上から並べてしまう人のことを言ってる。需要と供給が逆転している構図だ。

鬼滅の刃を本当に自分は好きなのか?それともあらかじめ準備されたニーズを自分のニーズと錯覚しているのか?その証明をするのは極めて難しい。

國分功一郎は次のように続ける。

もちろん熱いモノを熱いと感じさせることはできない。白いモノ黒に見せることもできない。当然だ。だが、それが熱いとか白いではなくて、「楽しい」だったらどうだろう?「これが楽しいってことなのですよ」というイメージとともに、「楽しいもの」を提供する。たとえばテレビで、ある娯楽を「楽しむ」タレントの映像を流す。その翌日、視聴者に金銭と時間を使い、ある娯楽を「楽しんで」もらう。私たちはそうして自分の「好きなこと」を獲得し、お金と時間を使い、それを提供している産業が利益を得る。

大衆向けに大量生産した作品を消費させて利益を得る産業のことを文化産業と呼ぶ。

鬼滅の刃ブームに感じる気持ち悪さの正体はこれである。ぼくたちの「好きなこと」は生産者の都合によって作られている、その手法に絡め取られているのではないか?という違和感である。

ではぼくたちはどうすればいいのだろう。文化産業に暇を搾取されるしかないのだろうか。

その問いにモリスが美しい言葉で答えてくれているのだ。

革命が到来すれば、私たちは自由と暇を得る。そのときに大切なのは、その生活をどうやって飾るかだ。

そう、ぼくたちは、生活を「どう飾るか」が何より大事なのだ。

じゃあ具体的に何を、どうやって飾ればいいんだろうか。

ブームから離れる たった一人の熱中

昨日、CATVをザッピングしていたら『GHOST IN THE SHELL』が放映されていて、食い入るように観てしまった。トータルで10回以上観ているだろうか。

www.youtube.com

「近未来SFの金字塔」と絶賛されており、もはやアニメの枠組みを越えて評価されている作品だ。今更ぼくが批評するまでもないので詳細は省くが、全編を通して、極めてリアルな世界観で描かれており、鑑賞中は固定観念をガンガンに揺さぶられる。

自由意志は存在するのか?人間とアンドロイドを分かつ定義は何か?記憶はどこまで信頼できるか?魂の居場所とは、などの激重たいテーマを、意思を持ったAIの顛末を追跡する筋書きの中でぼくたちに投げかけてくる。その意味では『ブレードランナー』との世界観と共通点が多い。

ーーーほそくーーー

全く本題からズレるけど、ブレードランナーのラストシーンでレプリカントのリーダー、ロイ・バティーが雨の中で語るセリフが好きだ。最後の、なんとも言えない笑顔もたまらない。このセリフがロイ役のルトガー・ハウアーのアドリブというのも驚きだ。

「おまえたち人間には信じられないようなものを私は見てきた。オリオン座の近くで燃える宇宙戦艦。タンホイザー・ゲートの近くで暗闇に瞬くCビーム、そんな思い出も時間と共にやがて消える。雨の中の涙のように。死ぬ時が来た。」 (原文:I’ve seen things you people wouldn’t believe. Attack ships on fire off the shoulder of Orion. I watched C-beams glitter in the dark near the Tannhäuser Gate. All those moments will be lost in time, like tears in rain. Time to die.)

ーーーおわりーーー

GHOST IN THE SHELL』を観終わったあとしばらく現実に戻れなくなった。押井守監督が創り出した、限りなく現実に近い世界観に「ダイブ」したからだと思う。

深海へダイブした気分のぼくは夢が覚めぬ心地のまま『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』を続けて鑑賞したのだった。

さきほど第2話 『暴走の証明』を観たのだが、気づけば頬に涙が伝っていた。数年前に観たときはこんなに感動しなかったように思う。

この回の主題は一体なんなのだろうか?なぜ琴線が揺さぶられたのだろう?

「いや、タイトルの通り『暴走の証明』でしょ」と言われればそれまでなのだが、暴走の証明と言われてもピンとこないのだ。

「生は他者との記憶により証明される」

というのがぼくなりの解釈なのだが、なぜそう思うのかを考えとして整理することにした。

『ブログタイトル:生の証明、暴走の証明』(あとでリンクを貼る)

"NO"からはじまる自由意思

・・・と、以上のように、ブームを過ぎた作品を「たった一人で熱中する」ことがぼくなりの対抗策だ。この営みは、誰の得にもならない。ただ、自分だけは幸せなのだ。だからこそ自分の意思で「生活を飾る」感覚を覚える。

アニメを観て考察すること、それ自体がぼくにとっての「Decor & Design」なのだ。

あるSF作家がこんなことを言っていた。

自由意志は、命令を拒否する"No"からはじまる

最大限自由に自分の人生をデザインして、生活を飾るためには、「たったひとりの熱中」が鍵になる。

本当の豊かさとは、他人から与えられたニーズを受け入れることではない。それは他人が想定した豊かさだ。

本当の豊かさとは、他者からの要請やレコメンドにキッパリ"No"の態度を取り、主流から離れることからはじまる。

そこを出発点にして、偶然を頼りに楽しみを探しにいったり、今となってはまったく誰からも相手にされていない作品に能動的に触れてみる。

自分の自由意思で選択したことに、何を感じるか、がなによりも大事なのだとぼくは思う。

運転免許窓口の対応から見えた景色。独占がもたらす腐敗と、ビジネスが生む緊張感。

運転免許の更新期限がきょうだった。気づいたのが16時。手遅れである。

ぼくは地元の警察署に電話をすることにした。

免許更新が本日期限であることにさきほど気付いた。延長などの措置は取れないか。

できない。そもそもなぜ2ヶ月の間、放っておいたのか。行く機会を取れなかったのか。

公私ともに忙しく、行く時間が作れなかった。また、期限までに行けなかったことは自分の責任だが、その理由までを追求されたくはない。

有効期限は1時間後に切れてしまう。郵便の受付も間に合わないので、運転免許センターで失効手続きを済ませるように。

なるほど。了解した。

電話をきったあと、心のなかで”ある指”を突き立てたがモヤモヤは晴れなかった。突き放した対応だな、と感じたからだ。

前提として、期限切れに気づかなかったのはぼくの責任だ。事務手続きは昔から苦手だが、それは言い訳でしかない。

これでは反省文化に生きる人間として失格だ。こんな日はプナンの人たち(※過去記事参照)に慰めてもらいたくなる。

過ぎてしまったことを悔やんでも仕方ない。心の中でキレ散らかしても無意味だ。

そこで、なぜ自分がここまでイライラしているのか、その正体を明らかにすることにした。

塩田元規氏に聞いてみる

「ハートドリブン」の著者である塩田元規氏が、Newspicks主催の石川善樹氏との対談で、以下のように言っていた。

何で怒るのか、自分自身に聞いてみると、「あ、なるほど」となることがわかる。自分の怒りの感情に気づけると、怒りが消えていくのだ。

怒りを鎮めるためには、その正体を認識する必要がある、ということだと思う。

では自分がなぜイライラしたのか?

よくよく考えてみると、怒りの正体は恐怖心からきている気がする。そこらへんをもう少し掘り下げてみたい。 

ジョン・アクトンに聞いてみる

f:id:DYD:20201208164910j:plain

ジョン・エメリク・エドワード・ダルバーグ=アクトン(英: John Emerich Edward Dalberg-Acton, 1st Baron Acton、1834年1月10日 - 1902年6月19日)はイギリスの歴史家・思想家・政治家。アクトン卿(Lord Acton)と呼ばれることが多い。

アクトン卿と親しまれた彼の格言にこんなものがある。

Power tends to corrupt, and absolute power corrupts absolutely.(「権力は腐敗の傾向がある。絶対的権力は絶対的に腐敗する」)

言葉の響きが素晴らしく、口に出して読んでみると詩をうたっている気分になる。

なぜ彼の顔が浮かんだのか?

電話の先にいる相手に、ある種の権力を感じたからだ。ただ単に「ムカつく」という感想だけでなくて、途方も無く分厚く、絶対的な「壁」を感じた。相手をするだけ時間の無駄なんだな、という感覚だ。

さて、アクトン卿の言葉にもどって「絶対的権力は絶対的に腐敗する」という言葉を噛み砕くために、パブリックセクターの特徴から考えてみるとわかりやすいかもしれない。

パブリックセクターとは地方公共団体特殊法人、公団等の公的な機関などを指すが、運転免許を発行する警察署もそれにあたる。

この領域は、基本的に競争のない独占市場である。わたしたちが持っている運転免許は警察署しか発行ができない。ゆえに価格競争も起こらないので、3800円ほどの手数料を定期的に払うことから避けられない。

そもそもは発行する側は競争がないので、基本は改善活動がいらない。いくら文句を言われようが、運転免許証の発行サービスは他のどこでも提供していないので、嫌なら好きにすればいいと突き放すことができる。Googleでいくら星1をつけられようが、罵倒を浴びさせられようが痛くも痒くもないのだ。

さて、これは果たして健全なのだろうか?

公的機関はそもそもそういうものだ、と言ってしまえばそれまでだが、明らかな腐敗だ。権力が、組織と人の関係性を腐らせている、と個人的には思う。

では、逆に何が健全な関係性なのか?

東浩紀に聞いてみる 

 東浩紀は、上記の自叙伝的な哲学書で以下のように述べている。

ゲンロンはあくまでもビジネスであることに拘りたい。それはお金を儲けたいあからではありません。そうではなくて、そもそも「観客」と「信者」のちがいというのが、商品と貨幣の交換が行われているかどうかによって決まるからなのです。 信者はお布施を渡すのであって、商品と交換するわけではありません。商品を買うかたちになったとしても、それは形式的なものです。 そこでの交換が成立しなけば、観客は離れてしまう。その現実感があるからこそ、ゲンロンはコンテンツのクオリティを大切にすることができる。

批評・哲学出身の作家が、ビジネスの対岸から会社を立ち上げ、座礁を繰り返し、約10年の歳月をかけてたどり着いた結論なので、とてつもない説得力がある。

ここからはぼくの解釈になる。

ぼくは、サービスを提供する側、サービスを買う側、どちらも平等、という価値観をもってる。だから、客側は「価値がない」と判断すればかんたんに離れることができる。自分の好きなものを自由に選べる、というはごく当たり前の原則だからだ。

そのかわり、提供する側が、価値ある商品・サービスを生み続ける限り、顧客はそれについていく。もっとよくなってほしいと思う人は、要望を出してくれたりする。耳を傾けられる提供者は、その声を「有り難い」と感じて改善に繋げるかもしれない。

つまり、両者がともに高め合うことができる。サービスや商品には、提供する側と買う側、双方の成長促進のプラットフォームとしての役割がある、と言えるのだ。

そのような「お互いに成長できるいとなみ」に参加することで、我々は「消費者」から「観客」に至る。逆に、理由もなくその商品を買うだけでは消費者に成り下がる。商品の価値がないとわかっていながら買うなら、それはただの「信者」≒「アンチ」への堕落だ。

貨幣の交換が成り立っている時点で、両者に緊張感が発生する。それが貨幣の強みだ。

「貨幣=緊張感」という方程式が成り立つとも言える。

独占市場に属するセクターの窓口とぼくの間に適切な緊張感がないのは、関係が対等でないから、ということに尽きる。不当な目にあったと感じるのは仕方ないことだ。腐敗構造からは適度な距離を置くのがよい。

その上で、自分がどこにいたいのか、を決めればいい。

まとめ

力を持つものは、その力を使いたくなる。それは自然法則なのかもしれない。権力の乱用は、本人の意思で退けることもできるけど、パブリックセクターの独占体質に染まってしまうのは仕方ないことだ。

環境がじぶんに与える影響は計り知れない。顧客に対する敬意やリスペクトが芽生えるかどうかは、本人の意思だけでどうにかなる問題ではない。もし、謙虚でありつづけることができたなら、それはその人が大変偉いということだ。人間個人はそんな強くない。

環境が個人にあたえる影響が大きいのであれば、なおさら「じぶんがどこに所属するのか」を心して選ぶ必要がある。周囲にいる人間をリスペクトできなかったり、扱ってる商品やサービスのことを「本当は価値がないよな・・・」と思い続けることは、小さな嘘を積み重ねる作業で、それを続けるうちに心が麻痺してくる。その繰しが尊厳を蝕んで、自信がなくなっていくのだ。とぼくは思う。

これは、多かれ少なかれ、誰しも経験のあることではないだろうか。

だからこそ、じぶん自身が、じぶんの価値観で、リスペクトできる組織に身をおく必要があるのではないか。

「価値が高い」と思える商品を検討して、作って、届けることができるかどうか、それに自分は拘りたい。

また、「いいビジネスだ」と信じられる分野に携わりながら、いずれはそれを創造する側に至りたいものだ。

いい顧客とは、東浩紀の言葉を借りれば「観客」として参加してくれる人だ。

ぼくも、観客とほどほど距離感にいながら、ほどよい「緊張感」を保ち、「お互いに成長できるいとなみ」に参加していたい。と願う。

この記事の冒頭は、「権威的な対応の苛立ち」からスタートしたが、「権力こわいねぇ」という話から、独占市場と開けた市場の比較、商品を売る側と買う側との関係論にまでいき、市場参加の戦略までコマを進めてきた。

見方を変えれば世界が変わる、と誰かが言っていたが、本当にそのとおりだ。

今後も、日々の違和感に敏感でいながら、知恵者のちからを拝借し、よい気づきを増やしていきたい。

エノーラホームズの事件簿と転職活動。一方でシンデレラから何が学べるのか?

f:id:DYD:20201207165542p:plain

原題:Enola Holmes 制作&主演:ミリー・ボビー・ブラウン 監督:ハリー・ブラッドビア 脚本:ジャック・ソーン 原作:ナンシー・スプリンガー 動画配信サービス:Netflix 製作国:イギリス 配信時間:123分

会社や団体に所属した人間が必ず通る道がある。

そう、仕事を通じた社会貢献への喜びである。未来最高!未来最高!

すみません、社会貢献とかは真っ赤なウソで、本当は転職活動についてでした。すいません、ついうっかり。

転職そのものや転職活動を経験しない人でも、一度や二度は、ここではないどこかへ・・・という思いを馳せるものだ。それが従業員の性というもの。DYDもそのうちの一人である。

転職活動とは、やや大げさに言えば生き方の見直しである。もちろん仕事が人生のすべてではない。ただし、日本人の80%以上はクワドラントの4象限で区切ると労働者として生計を立てていることになる。

f:id:DYD:20201207170004j:plain

つまり、一月単位で日計算すると、ざっと月の2/3の割合を自らの労働力を売る形で過ごしていることになる。平日は労働、休日は余暇。それが仕事の基本スタイルだ(本当は24時間/日で計算すべきだが、わかりやすさのため簡略化する)

実生活の65%以上を占める労働時間をどのように過ごすか考えるのは、生き方を考えることと捉えても大きな違和感はないだろう。

では、そもそも、仕事を変えよう=生き方を変えようと思うのはなぜか?

それは、以下のような疑問がきっかけになっているはずだ。

これが僕の(私の)本当の人生なのか?

エノーラ・ホームズの場合

記事タイトルであり、サムネイル画像の伏線をここで回収していく。

「エノーラホームズの事件簿」とは、ミリー・ボビー・ブラウン(「セレブもハマるドラマ」という謎のキャッチコピーで通っている「ストレンジャー・シングス」でイレブン役を演じた子)が制作&主演をつとめたNetFlix Original映画である。

www.netflix.com

エノーラ・ホームズは母と二人暮らし。

父は早くして死別し、兄二人は物心付く前に家を出ていってしまった。エノーラにとって母は勉学の師であり、チェスの相手であり、武術の心得を教えてくれた先生であり、すべてだった。

幸福な日々はある日突然終わる。

ー母が消えたー

エノーラは、兄である聡明な探偵シャーロック・ホームズと、堅物の政治家マイクロフト・ホームズを我が家に呼び寄せるが、事態は思わぬ展開へと進む。

この映画の主題は

The future up to you!ー未来は自分次第!ー

だ。

誤解を恐れず言うと「エノーラホームズの事件簿」はこのテーマがすべてだ。

「未来」は2つのある。

一つは自分の道。もう一つは誰かが決めた道。どちらか一方だ。中道はない。

考える道、思考停止の道、と言い換えてもいい。

主人公エノーラは一貫して自分の道を選び続ける。

今風に言うと極めて”多動”である。

これは、ホームズ家の性(遺伝的特性)でもあるが、何より母親の存在が彼女の人格・思想を形成している。

参考:「人間の本質は生まれつきか?」 

選択を迫られる状況に積極的に身を置き、そこから逃げない彼女が本編の魅力の一つだ。

しかし、逆の価値観として、じっと耐え忍ぶことが肝要である、という教えもある。

忍耐で人は幸せになれるのだろうか?

シンデレラに聞いてみる

上で述べたように、耐え忍ぶことが人生の美徳である、という意見もある。

耐え難い環境や、理不尽な状況であっても、その場に留まり諦めずに夢を持ち続ける、そんな姿に胸を打たれる人も多いのではないだろうか。

シンデレラがその典型だ。

先日、改めてディズニー版の映画を鑑賞したが、正直なところ、マジでこんなヤバい話だったっけ、という感想だった。批判ではなく、純粋に恐ろしかったという感想なので悪しからず。

シンデレラ(吹替版)

シンデレラ(吹替版)

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
 

いまさら言及するのも野暮だが、筋書きは以下のようなものだ。美しく彩られたあらすじしか見つからなかったので、自分で認めることにした。誤りなどあればご指摘されたし。

幼い頃に母親を亡くしたシンデレラは、再婚した継母に引き取られる。連れ子の2人と継母は容姿の嫉妬からかシンデレラに嫌がらせを繰り返す。

ある日、お城の舞踏会の招待状が届くのだが、シンデレラは参加することを許されなかった。落ち込むシンデレラの目の前に突然魔法使いが現れ、ドレスと魔法の馬車を授けた。

すったもんだあって、シンデレラは王子とお城でダンスをすることになるが、魔法使いがかけた魔法のタイムリミットが迫っていることに気づき、城を後にする。

帰り道にシンデレラが落としてしまったガラスの靴を手がかりに、王子は未来の花嫁探しをすることに(※実際に探すのは中間管理職的な執事)

ついに捜索の手がシンデレラの家まで迫るが、継母はシンデレラこそガラスの靴の持ち主であることを悟り、彼女を監禁してしまう。

姉の2人が未来の花嫁だと主張しガラスの靴を必死に履こうとしてみるがサイズが合わない。

すったもんだあって、シンデレラが脱走に成功し、ガラスの靴を履こうとするのだが、継母によってガラスの靴が破壊されてしまう。

しかし、懐に隠してあったもう一足のガラスの靴を取り出し、自ら履いてみせることで、自らがあの晩の女性であることを証明する。

得てして、シンデレラは王子と結ばれ、末永く幸せに暮らした。

でめたしでめたし。

fin

改めて筋書きを記述してみたが、読者の皆様はどのような感想を持っただろうか?

僕がまず気味悪く思ったのは、親父なにしてんの?という疑問が解消されないことだ。この問いは最後まで解無しなのでひとまず置いておく。

さて、シンデレラの境遇が悲惨なのは事実だが、なによりも恐ろしいのは、シンデレラ自身が家からの脱出を全く試みないことだ。巷で見るコピーには「ヒロインの勇気ある行動に胸を打たれ」とあるが、彼女自身が自らの幸せのために思考し行動するシーンは劇中に表れない。監禁から脱出したのも、ネズミと犬の努力の甲斐あってのことだし、魔法使いが現れるまで、悪態をついているかニコニコしているだけである。

犯罪者集団に捕らわれた人質が、彼らと同居するうちに同情心や共感が生まれ、共存関係になってしまう「ストックホルムシンドローム」の構造を見ているようで、もはやここから出てやるんだ、という意思が彼女から1ミリも感じられない。

要は、実はこの人は何も考えられなくなっているのではないのか?

という違和感がこの映画のとてつもなく恐ろしく見える正体だ。彼女の笑顔がそれを引き立たせている。

グリム版シンデレラとの比較

ちなみに、映画の原作になったグリム童話版は、かなり様子が違ってくる。具体的は、大きく2つのシーンがディズニー版でカットされている。以下を注意深く見てもらいたい。

  1. 硝子の靴を姉達が履こうとするシーンで、シンデレラが継母に「足を小さくするしかない」と囁き、継母が2人の姉にそれぞれに、つま先とカカトを切り落とすように命じ、姉たちはそれを実行。辺りは血の海になった。
  2. シンデレラの結婚式に呼ばれた姉妹は、2羽の白い鳩の鋭いクチバシで両目を突かれて失明する。

まさに痺れる展開で、カタルシスを覚えてしてしまう。グリム童話の底の見えなさにうっとり&脱帽だ。

ディズニーが意図的に切り取った上記のシーンは「因果応報」「人は見かけによらない」「嘘つき怖いねぇ」「人間の欲望怖いねぇ」という教訓を教えてくれる、大事なパートだ。

クズみたいな人間もいるが、嘘や虚構が暴かれたとき、それが罰せられることもある。だからクズをクズのまま見逃せたりする。

また、サクセスストーリー(王子との結婚=“裕福さ”の象徴の獲得)の裏には時に他人を蹴落とす強かさが必要という現実が横たわっている。所謂悪人が幸せを勝ち取ることは珍しくないのだ。

善悪とは常に紙一重であることを、グリム版シンデレラは教えてくれる。

ディズニー版シンデレラの気持ち悪さは一体なんなのか?

それは原作の核を切り取った結果の歪みなのかもしれない。

教訓のない虚構は、真に空洞である。

ニーチェに聞いてみる

シンデレラのストーリーでは、ネズミと魔法使いがシンデレラに奇跡を起こしてくれる。現実に照らし合わせれば、魔法使いとネズミは、自分の意思ではコントロールできない「天災」と同じだ。天災の視点から見れば、結果として、シンデレラは王子との結婚という世間一般の幸せ像を手に入れたが、継母家族は奴隷(シンデレラ)を手放した。

「人生は平等ではない」というのが僕の家の数少ない教えで、今では僕の価値観に組み込まれているが、世界は基本的にクソにまみれてる。宮台真司が口癖として「世間はデタラメだ」という言葉を使う。僕も概ね同意である。

ただ、この思考をすすめると、ニヒリズムに突入して、ニーチェの言う「末人」になる。

ツァラトゥストラ(上) (光文社古典新訳文庫)

生きるための絶対的な基準(例えば、神様とか戦後の神話とか)がない。自分は無力だ。なんのために生きるのか?生きる理由なんてないんだ。将来に希望なんてないじゃないか。

ニヒリズムとは大体そんな感じだ。こんな人(末人)で溢れた世界をディストピアと言う。

それを克服するために「永劫回帰」という概念を用いて「神が死んだ」後の世界に対して、人間の不屈さを奮い立たせようとニーチェは試みた。

目の前にある現実こそが、これこそ自分の人生だ、と自信をもって肯定できる人は、これまで歩んできた過去も、「これでよかったのだ」と肯定することができるのだ。

そして、ニーチェは続ける。

そして未来に対しても臆することなく前向きに肯定的に歩んでいくことができる。

つまり、今のこの瞬間を肯定できれば、この先もずっと肯定し続けることができる。

そう喝破した。

天才ニーチェの言っていることを完璧に理解できたつもりには全然ならないが、これは、「ただ耐える」ということとは全く違う気がするのだ。

エノーラvsシンデレラの結末

エノーラホームズの事件簿のヒロイン、エノーラは思考と行動によって未来を変えていく。シンデレラは、思考を停止させ、行動を起こさず、天命に身を任せた。

思考を止めて、行く末を"誰か"に委ねるシンデレラになるか、自ら生き方を選択するエノーラになるか、その人の自由である。

自由意思だけで人生を変えることはできない。ただし、環境、運、遺伝、行動、いずれかが噛み合うことで、選択肢が目の前に現れる。AかBか。前者は現状維持、後者は変換だ。

刺繍もろくにできないエノーラは、当時の世間体からすると恥ずかしい存在だったが、世界を見て、そして自分を見た後で、探偵になるという道を選択する。

 

さて、あなたはどの道を選ぶ?

最後は冒頭の「エノーラホームズの事件簿」のこの言葉で締めくくることにする。

The future up to you!ー未来は自分次第!ー